こころとからだの建築家BLOG

住まいの統合医療で50兆円にせまる医療介護費を半減させる!!
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最も人柄が出る時間 〜結婚式で垣間見た愛に溢れた家族

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     「Rちゃん、むっちゃいい子やね!!(^^)」
    従兄弟の結婚式で急にマイクが回ってきたときに思わずこう答えてしまった。

     Rちゃんは従兄弟のYのことを「お買い得品でした!!(^^)」と言っていたが私からすれば、Rちゃんこそ「お買い得品でした(^O^)」と言っていいくらいの子だと思った。そしてその彼女のそばには小柄だけど大きな存在の母と優しい姉がいた。

     彼女は小学生の頃に父親を亡くし母と姉と3人でやってきたという。失礼や批判を承知で書くが、統計的には片親の場合、子供が非行に走ったり人間関係において多くの問題がおこる割合は、両親に育てられた場合よりかなりの割合で高くなる。しかし、彼女はそんな統計や色眼鏡を一瞬にして彼方に吹き飛ばしてくれた。

     式でも彼女は何十回と「愛」という言葉を惜しげもなく使った。聖書から愛についての一説を説いた。
    「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
    すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」
    コリントの信徒への手紙機。隠馨錬院檻言

     そして実際に愛に溢れていた。家族と大きな愛でつながれていた。そしてそれを目に見える形で表現していた。あれだけ公の場でみんなに心からハグし、チュッチュチュッチュとキスしていた母親を見るのは初めてだ。喜びを抑えきれなかったのだろう、いや抑える必要などあるのだろうか?感情を素直に表現できるのは素晴らしいことだ。小柄な新婦の母親がすごく大きく見えた一瞬だった。そして大きな家族の愛の涙で心が洗われた素晴らしい時間だった。

     その人が育った背景と家族が見え、これから巣立っていく場面である結婚式は、その人となりが一番出る場面だといってもいいのかもしれない。

     今まで多くの式に参席させてもらったが、感動した式というのはだいたいにおいて新婦の人柄によるところが大きい。新婦が「結婚式なんて興味ない」と言い、ドレスなども新郎が決めたと言っていた先輩の式でさえも、際だったのは新婦の自由奔放さとあたたかな人柄だ。言い方は悪いが、こういう場ではいくら取り繕っても新郎はメインに添えられたマッシュポテトにすぎない。社会的な地位やプライド、男としての役割?、性格など、様々な要因があるとは思うが、こうした場での女性の肝の据わり具合は尊敬に値する。そしてなによりもその場を存分に楽しんでいる姿に感動するのだ。

     その式の価値を決めるのは式にかけた金額でも呼んだ人の多さでも料理の豪華さでも体裁でもない。「無償の愛」を誓いあう二人の“人となり”がその式の価値を決めるのだと思っている。そしてどれだけその場を心から楽しんでいるか。その楽しさと喜びは引き出物よりも長く参式者の心に残る財産だ。こうした喜びを一緒に分かち合えたこと、そして素晴らしい親戚が増えたことを喜び、心から祝福したい!!




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    絶対的美は存在するのか?〜天然美人と整形美人を見分ける眼

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       以前、整形について詳しい友人と話しながら美人だと思う人を挙げていて面白いことに気が付いた。ひとつは私の挙げた二人とも整形をしていない顔であるということ。そしてもうひとつが、綺麗なのだけどなんか違う。。と思っていた美人がほぼ整形顔だということだ。



       今や美人女優の代名詞ともなった↑を例にあげてみよう。確かに整った美人だとは思うのだが、なにか変なのだ。例えるなら蝋人形のような美しさとでも言ったらいいだろうか。それは広告用の写真だからではなく、TVで見てもその印象は変わらない。そんな彼女は整形業界では最高傑作と言われているらしい。

       挙げればきりがないが、私が綺麗だとは思うけどなにか不自然だと思っていた顔立ちの美人はほぼ整形美人だという話しには驚くとともに、感覚的ではあるのだが、「自然な人の顔」と「整形した人の顔」を見分ける審美眼がそこにはあるのではないかと思ったのだ。

       モノを見る目は、意識を持って見ることによって、ある程度まではトレーニングで鍛えられる。おそらく人の顔を何千、何万と見ているうちにそうした微妙な不自然さに気づくようになったのかもしれない。

       美術の専門家は自分の専門分野以外のものや、見たこともないものも鑑定しなくてはならない。そうした鑑定はほんとうに正しいのか??などと思うのだが、たくさんのものを見てきた「眼」と「直感」は初めて見たものでもかなりの確率で正しい判断をするという。
      参考文献 “第一感「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい”マルコム・グラッドウェル

       まさに私が整形美人に持った印象も「なんとなく変」という程度でしかない、しかし実際に整形の手術をする専門家が見れば「なんとなく」ではなく、どういう手法を用いたのかが分かるのだ。それは整形だけではなくあらゆる分野において知識と経験で判断できるものであるといえる。

       整形の可否をここで問うつもりはさらさらない。ただひとつだけ問題視するならば、単一民族の日本の弱点でもあるのだがあまりにも単一の価値観に縛られすぎていることだ。スターウォーズのルークが育った惑星タトゥイーンの風景は思い浮かぶだろうか?毛むくじゃらのチューバッカ、ロボットのR2−D2と3PO、トドのようなジャバザハット、蛙のような人もいれば、我々のような形をした人もいる。大袈裟な例えだが、こんな多民族国家の中では二重まぶたにしようなどとは思いもしないだろう。

       法隆寺の宮大工だった西岡常一は著書の中で興味深いことを書いている。
       木は人間と同じで一本ずつが全部違うんです。それぞれの木の癖を見抜いて、それにあった使い方をしなくてはなりません。そうすれば、千年の樹齢の檜であれば、千年以上持つ建造物ができるんです。これは法隆寺が立派に証明してくれています。
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       そうした木の性格を知るために、木を見に山に入って行ったんです。それをやめてどないするかといいましたら、一つは木の性格が出んように合板にしてしまったんですな。合板にして木の癖がどうのこうのいわないようにしてしまったんですわ。木の持つ性質、個性を消してしまったんです。
      ところが、癖というのはなにも悪いもんやない、使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいなもんですけど、うまく使ったらそのほうがいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな。
      「木のいのち木のこころ」西岡常一・小川三夫・塩野米松

       教育も、そこから育った人材も、その人材が作り出すモノもみな「均質化」されてしまっている。これは「複製」とも関係してくる現代社会の重要なキーワードの一つだ。この西岡氏の言葉は様々なことに通じてくる。

       話しを元に戻そう。モノ作りにおける流行としてのファッションという文脈においては、デザインはもはや“いい悪い”ではなく“時代に合ってる”とか“好き嫌い”という個々の価値観でしか判断できないような状態に陥っている。そもそも絶対的美は存在するのか?「人工的な美しいもの」ももちろん美しいと思うが、もしそうした絶対的な美が存在するとすれば、それは「自然な美しいもの」なのではないだろうか。そして「自然な美しいもの」をほんとに微妙な差異から見極める眼を人間は持っている。

       プロダクトや建築のデザインにおいては、擬似自然的なデザインが10年ほど前から急速に増えてきている。建築においては3次元的な構造解析が可能になり、ランドスケープと一体化した有機的なデザインがもてはやされ、プロダクトにおいてもコンピューターによる3次元形態の造形が可能になったことにより、3次曲線を用いたデザインが成立するようになってきた。それと同時に人工物と自然物という違いこそあれ、こうした自然を模した「リ・デザイン」が行われている裏で、顔の「リ・デザイン」が併走しているという事実も見逃せない。

       「自然なもの」と「不自然なもの」を感覚的に見分ける能力が人工物をデザインする際に活かせるかどうかは今後の課題だが、知らぬ間にこうした天然物の美人と整形美人を見分ける目を養っていた事実は、モノ作りをする者としてはちょっと嬉しい(^^)これがたんなる偶然ではないことを祈るばかりだ。


      (2006.11.30 一部加筆修整  12.10 再修整)
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      読書を習慣にしても無駄じゃない?〜読書週間に考える

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         私も大学の時まではそんなに本を読まなかった。「好きこそものの上手なれ」必要性も感じずに好きでもないものを読んでもたいして頭には残らないものだ。

         しかし、大学で建築を学びはじめ、嫌々やる勉強ではなく、自ら進んでやりたいことを学ぶようになってそのスタンスは一気に変わった。恩師の反対を押し切って自分のやりたい研究をした大学院時に目を通した書籍は100,200といった数ではすまない。研究分野の前例がいままでになく、範囲が幅広かったのもあるが、その時に吸収した知識は今でも私の基盤となっている。

         それから7年が経ち、社会人としての経験も積み、退職を期に一度社会を俯瞰してみて自分の未熟さと今までいた世界の狭さ、世の中の広さ、そして先人が蓄積してきた人類の一員としての知識をもっと吸収したいという欲望が生まれてきた。

         「本は心の栄養」ではあるが、本は読まなくても死ぬことはない。しかし人類は文字を持つことによって、積み重ねてきた叡智を子孫に伝えることができるようになったのだ。口述で伝承されていたものが、文字が生まれたことによりそれまでよりも多くの人に伝えられ、翻訳と印刷技術の発展と運送のスピードアップによりそれは加速度的に広まり、ついにはインターネットアップされることにより、筆者と読者の時間的・物理的な距離はほぼなくなり、ダイレクトに情報は伝わるようになった。こうして人類の発展は文字情報の伝播の速度と共に急速に進化してきたといえる。その叡智は常識や暗黙知、一般教養として社会全体にはストックされているが、これらは人類が積み重ねてきた叡智のほんの一部にすぎない。その背後には一生かかっても吸収することができない巨大な知識の小宇宙が存在し、その大きさはブラックホールのように加速度的に拡大し続けている。

         こうした素晴らしい知識の小宇宙に必要性を感じなければ個人が積極的に吸収することはないだろう。しかしそれでは先人の経験や知識を存分に活かすことはできない。B.C.5000〜B.C.4000年ごろエジプトで石などに文字や絵画を彫刻して押印したころから見れば約7000年。15世紀ヨハネス・グーテンベルクの発明した活版印刷を起点にしても550年分の全人類の叡智がつまった「人類の百科事典」=本(情報)があるのだ。こうした素晴らしい先人の遺産を放棄することが賢い選択なのかは自明の理だと思うのだが、世の中の半分の人はそうは思っていないようだ。

        「1か月読書せず」49%、若者の本離れ進む
         

         毎年行っている読売新聞の調査なのだが、この結果よりも疑問に思うのが、
        本離れの歯止め策について聞いたところ、「家庭で読書の習慣を身につけさせる」51%、「学校で読書教育に力を入れる」47%――などが高かった。

        という結果だ。このアンケートが選択方式だったのか、自由記述だったのかは分からないが、こうした認識しかないようでは本を読まなくなっても仕方がないのかと思ってしまう。読書が有用であることは社会の擦り込みでなんとなく分かっているのだろうが、その明確な意味づけもできないようでは、本を読もうとは思わないだろう。たとえ家庭や学校で読書を習慣にしても、目的を持って読まなければその意味はほとんどない。小学校の読書感想文で好きな本を読むのならまだしも、指定図書を無理矢理読まされても苦痛以外の何者でもないのだ。そこに生まれるものは夏休みのイヤな思い出だけだ。

         あまり本を読まない人には 本=小説=娯楽 という構図があるのだが、小説は本の中のほんの一部でしかない。そして問題意識を持ち自発的に学ぶスタンスにおいては全体に占める小説の割合は次第に減ってくる。大切なのは読書の習慣ではなく、子供が興味を持ったものに問題意識を持たせて学ばせる環境と教育、それに人類における本(情報)の持つ意味だ。好きなことなら積極的に本から情報収集もするだろうし、そこから本を読む意味も見いだせるだろう。そして長年積み重ねられてきたこの素晴らしい「人類の百科事典」をうまく使う術を身につけることで、その人の人生の大きな羅針盤となることをうまく示してあげ、頭ではなく身をもって理解させてあげるべきなのだ。

         好きなことに興味を持たせて自発的に学べる教育を受けてこなかった大人が人類の積み上げてきた叡智を放棄してしまうのは、厳しい社会を生き抜いて行かなくてはならない我々には無謀とすら言える。こうした社会では、人生の羅針盤を本から吸収し、それをまた時代にあったものに再生産し、子孫に残していく事が我々の「努め」なのだと思っている。そして、それは決して「勤め」ではない。「勉(めて)強(いる)」ではなく自ら「学(んで)問(う)」をするとき、素晴らしき先人の叡智が活かされることになる。

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        個人情報と匿名性 −情報を出さないデメリット−

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           平成15年5月30日に個人情報保護法が成立して早2年が経過し、我々もちょっとした場面で多くの個人情報の扱いを明示した文章をみかけるようになった。しかし、ネットでの個人情報流出のトラブルは増え続け、実際にそうした謝罪が届いたり、私のように見知らぬ請求書が届いたり等ということも多くの人が経験しているのではないだろうか。大企業ではISO基準の個人情報保護に対応するためにかなりのコストと規制がかけられ、例えば顧客情報が少しでも入った資料をデスクの上に置いたまま帰宅するだけでも始末書ものだという。設計事務所で言えば、住宅等の図面も個人情報の塊だから、きちんと管理しなくてはダメだと営業に来た女の子に私もお叱りを受けてしまった。

           一方、そうした個人情報保護に対して過剰反応な部分も多く見られる。この法律自体が過剰反応という声もあるが、特に個人レベルにおいては、安全側を取り“情報はなるべく出さない方がよい=匿名性が高い方がよい”という思考が先行し、情報を「出すことのメリット」と「出さないことのデメリット」という視点がまだまだ欠けていると思っている。

           ここで個人情報保護法の概要を見てみよう。
          第1章 総則
           1 目的(1条)
          高度情報通信社会の進展に伴い個人情報の利用が著しく拡大
          → 個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護

           2 定義(2条)
          「個人情報」…生存する個人に関する情報(識別可能情報)
          「個人情報データベース等」…個人情報を含む情報の集合物(検索が可能なもの。一定のマニュアル処理情報を含む)
          「個人情報取扱事業者」…個人情報データベース等を事業の用に供している者(国、地方公共団体等のほか、取り扱う個人情報が少ない等の一定の者を除く)
          「個人データ」…個人情報データベース等を構成する個人情報
          「保有個人データ」…個人情報取扱事業者が開示、訂正等の権限を有する個人データ

           3 基本理念(3条)
          個人情報は、個人の人格尊重の理念の下に慎重に取り扱われるべきものであり、その適正な取扱いが図られなければならない。
           この概要から引用すれば「個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護」の「個人情報の有用性に配慮しつつ」というところが抜け、「個人の権利利益を保護」というところのみを拡大解釈しすぎているところが多々見られる。その一例が、ネット上における匿名性についての傾向だ。

           一言でネットと言っても、いろいろなサービスや形式があるが、ここではSNS(Social Networking Service)における個人情報を例に挙げてみる。

           まだmixiとGREEの登録者が大差なかった1年半ほど前、ブログでmixiとGREEの匿名性について書いた(記事はこちら)使い勝手やエンターテイメント性、アダルトサイトの有無、集まる人の種類などの違いはいろいろあるのだが、私はその匿名性の高さゆえにmixiが今後伸びていくと予想した。そして今のところ予想通りの展開になり、GREEよりmixiの方が匿名性が高く、登録者数もmixiがGREEに大差を付けている。(2006年8月現在の会員数はmixi約500万人、GREE約35万人)

           そうした匿名性の高いmixiの方に人気が集まる中で、果たして実名を隠さなければいけない理由があるのだろうか?と思いながら私は実名を公開している。
          「出さなくていいなら出さない。」
          「なんとなく出さない方がいいような気がする」
          と言うような気持ちは理解できる。そうした実名を出さない人が多いと、理由は関係なく雰囲気的に実名を使う人が少なくなるのも事実だ。みんなと一緒である安心感や安パイを取るというのは妥当な選択なのかもしれないが、もともと誰かの紹介がないと入れないシステムになっており、リアルな知り合いがいるはずなので実名を隠す意味はほとんどないし、逆にニックネームだとわかりにくい。まだネットでのセキュリティ環境も発展途上で確立されていない現状もあるが、実名すら公開しないというのは個人情報について過剰反応なのではないか?と思うのだ。サイト上で住所や電話番号を公開されているわけではないし、クレジットカードの番号を記入するわけでもない。日記も友達以外非公開にもできる。さらにメールもmixi経由でしか送れないので、送り主を特定できるし嫌なら拒否できる。個人的に被害を被りそうなところには様々な対策がすでに取られている。ブログ上で人の名前使う場合はニックネームにしたりする配慮は理解できるが、自分個人の情報をそれほど隠す理由があるとすれば、“誹謗中傷をする場合”や“アダルトサイトを利用したい場合”など言論の責任を回避するような場面しかしか思いつかないのだがいかがなものだろうか?それとも得体の知れないミステリアスな人というイメージを作りたいのだろうか?

           ここでは一例としてSNSにおける実名・ニックネームだけの情報ではなく、その人についての様々な情報を「出すことのメリット」「出さないことのデメリット」をいくつか挙げてみることにする。

          ■実名を出すことによって、思わぬ再会ができる。
           (実際mixiやGREEで連絡が途絶えていた友人や幼なじみ、小学校の同級生と再会できた ニックネームだと誰なのだかわからないのでこうしたチャンスもなくなる)

          ■自分をアピールする場と思えば、経歴も含めなるべく多くのことを書いた方がよい。
           (現在でも多くの人が名刺代わりに有効活用している 実際私も自己紹介を読んで興味を持ってくれた人と新たなつながりができたりしているし、面白そうな人にはこちらからコンタクトを取ったりしている)

          ■同じニックネームの人がいて紛らわしい。
           (実名も公開している人も含めて、私のマイミクにはヒロさんが3人 タローさんが2人いる)

           経歴や生年月日などの公になるような個人情報は調べようとを思えばいくらでも調べられるので、そうしたことを隠す意味はあまりない。それならむやみに隠すのではなく、公開したいものは積極的に公開してツールとして有効に使う方が理にかなっている。

           『ウェブ進化論』にて梅田望夫氏が、日米ブログ比較を行っていたが、その中で“実名で自己主張するアメリカ”と“匿名で書く日本”という日米の文化のにおける相違を書いている。自己主張をして存在を主張する文化と、周知のことは暗黙の了解としてしまう文化の違い。こうした文化的な違いはblogだけにとどまらず、あらゆる場面で表出し、SNSの匿名性とも同期している。

           個人情報保護法による過剰反応が落ち着き、情報を「出すことのメリット」「出さないことのデメリット」を吟味できるようになるまでにはもう少し時間がかかるかも知れない。しかし出さないこと以上に得るものがある。もともとリアルな関係をサイト上に反映させるというのがSNSの特徴なので、SNSサイト側も実名利用を推奨しており、今後実名利用によりサイトがさらに有効利用されるのは確実だと思う。(そのわりにmixiではマイミクとして表示されるのはニックネームで使いにくい。これはサイトの意図と反するので再考の余地がある)

           誰に見せるわけでもなくつれづれなるままに書きたいから書くだけのものは論外だが、匿名だから気楽に書けるというのでは自分の意見に責任を持っていることには決してならないし、そうした意見には実名で書かれたものほどの説得力はない。新聞記事でも署名がある記事とない記事とでは、かかってくる責任もかわってくる。

           政治の世界にも目を向けてみると、薬害エイズ問題、天下り、道路公団や防衛施設庁の談合などなど、どんなにひどい政策を立案しても懲戒免職されても官僚の名前が公開されないような日本の官僚の匿名性による組織的な責任逃れが、個人情報保護法でその壁がより厚くなったという。(参考『この国を、なぜ、愛せないのか~論戦2006』櫻井よしこ

           話が大きく飛躍してると思うかも知れないが、ネットはネット、リアルはリアルというようにうまく使い分けができるほど人間は器用ではないのだ。日本の政治における悪い意味での匿名性の文化は政治だけにとどまらずあちらこちらに残っている。そしてこうした匿名性をたてに言論における非常識な責任逃れをするような事はネット上ではさらに容易に展開できてしまう。報道の自由というスタンスを貫くような立場なら匿名の重要性は理解できるが(参考「きっこのブログ」メディアでは報道できないような既得権益に左右されないいろんな裏話満載)個人レベルの情報においては、匿名性はほとんど意味をなさないというのが私の今の結論だ。

           反論されようと自らの言動に責任を持つ文化をきちんと育てていくためにも、ただでさえ匿名性の高いネットでの匿名を助長するような環境は変えていくべきだと思っている『この国を、なぜ、愛せないのか~論戦2006』において櫻井氏はこう書いている。「匿名社会とは、誰も責任を取らない社会の出現を意味するのだ。」と。


           



          その他に気になった個人情報保護法の概要
          ・報道を目的としている場合適用されない
          ・死者の個人情報は法律の対象外


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          浄水器を通した牛乳は水になるか?- ナンセンスを楽しむセンス

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            ■我が家で愛用のBRITA(世界で一番使われているドイツ製浄水器)


            ■まずは牛乳を投入


            ■な・な・な・なんと水になった!!


            ■洗浄のため水を投入 すると今度は牛乳になった!!


            ■さらに水を入れると、乳泊の水に変化・・


             こんな実験をすることになった事の発端は、遊びに来ていた友人との会話。我が家は築30年以上の古いマンション。配管もだいぶさびていて、しばらく使わないと少し茶色い水が出る。少し流せば透明になるのだが、この不純物は浄水器で濾過すれば透明になる。では牛乳はどうか?今までそんなことは考えたこともなかった。理屈で考えれば「不純物は濾過されても、溶けている成分は濾過されないので透明な水にはならない。これを透明な水に変えるには高分子膜や高圧力が必要なのだと思う」しかし友人は「やってみないと分からない」と言い張る。おっしゃるとおり。そのまま実験に入った。

             種を明かせば、牛乳が水になったのも、水が牛乳になったのも、共に前回濾過したときの水分が濾過器内に残っていて、一回分遅れてそれが出てきているにすぎない。よって「牛乳は白いまま牛乳の味がして出てくる(濾過器内に残っている水で薄まるためか、風味が減り、味もすっきりしていた)」し「水は牛乳にはならない」のだが、こうした思いもよらない想像力をかき立てる実験はワクワクする。おそらく子供なら「濾過されればなんでも水になる」と普通に考えるかもしれない。透明な水になると思った皆さんは子供の心を持っています(^^)

             私はよく小さい子供に「ホントのような嘘(冗談)」を言うのだが、これは冗談を言ってふざけているだけではなく、子供に「人に言われたことを全部鵜呑みにするのではなく、自分でちゃんと考えて答えを出しなさいね!!」という意味も意識的に込めている。それは子供だけではなく、大人でも同じ事だ。一見ナンセンスと思えることにも大きな発見が隠れている。ブレーンストーミングはまさにナンセンスを許容することによってイノベーションを生み出す。灯台もと暗し、真実の下には見えない事実が潜んでいるのだ。

             まだ分別の付かない子供にマスメディアが与える影響は計り知れない。大人になるとメディアの言っていることが、正義でもなければ真実でも事実でもないということが分かるのだが、子供の場合はそうもいかない。こうした背景からイギリスでは小中学校でメディア教育が行われるようになっている。メディアの情報をどう読み取るかを学び、自らメディアを使って何かを制作し、作る立場に回ることによって、その情報の使い方、さらには読み取り方を学ぶ。そうすることにより、最初は疑問すら抱かず、自分の意見を持たなかった生徒が自ら考え、自分の意見を言えるようになるという。

             ネットで検索すればほとんどの情報を得られる状況では、TVや新聞などのメディアなどよりもより雑多で真偽も分からない情報が入り乱れる。そうした環境では、メディアをどう解釈するか?という点がより重要になって来ている。もちろん自身のエゴや先入観がそうした判断の邪魔をすることは言うまでもない。

             このブログも雑多な真偽も分からない情報のひとつだ。しかし、ひとりよがりの思考ではなく、真剣に考えコメントをくれる人たちと議論し、共有することによって、なにがしかの形が見えてくれば最高だと思っている。少なくともこれからの日本と世界は誰かが担ってくれるものでもなく、我々が担って行かなくてはならないのだから他人任せの無関心でいることがどうしてできようか?我々は映画やアニメで描かれた未来都市以外の未来都市の姿を想像することは難しい。なぜなら、そこにはすでに描かれたビジョンがあり、そこに向かって社会が走っているからだ。これからの未来も同じだ。どうありたいか?どんな社会にしたいか?というビジョンなしでは社会は迷走するだけだ。そのためにも各々がメディアに踊らされない自己を作り上げ、それぞれのビジョンを描き、それを共有していく必要がある。それがより簡単に個人でできる時代だ。個の集合で大きな力を持てる時代なのだ。ビジョンもひとつ間違えればイドラ(先入観・偏見)となってしまう可能性もあるのだが、『茹で蛙』になる前にそうした可能性に気づき、有効に活用していかなくてはいけない。

             小さい頃、冗談めいたことばかり言って本当のことを煙に巻く母親に「ホントのこと言ってよね〜!!」と怒ったことがある。それがユーモアというメディアを使って、遊んで楽しみながら自分に考えさせる教育だと気づいたのはつい最近のことだ。

             私が大好きなオノ・ヨーコの言葉もまさに『ナンセンスを楽しむセンス』で綴られている。
            「Make a way for the wind 道を開けなさい。風のために。」
                        Yoko Ono grapefruit juiceより

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            目次002 2005.02.08−

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              相手を思う “もてなしの心”
                   〜ホスピタリティとコミュニケーションの相関

              東西文化度比較 〜文明と文化のこれからの関係
              すてき・素的・素敵・ステキ 〜今日も素敵な一日を!!
              真の暗闇の世界で 〜光のない闇は存在するのか?
              続・脱エネ 団塊世代の農村移住 〜もの作りの根源としての自給自足
              「省エネ」から「脱エネ」へ 〜快適性という慣習が身体を退化させる
              富士登山で考える 〜日本人の心のよりどころとしての富士山
              マンションは何年持つのか?その2 
                   〜時限爆弾の導火線は抜くことができるのか?

              マンションは何年持つのか?その1 〜各国の住宅事情比較
              広大な空を駆けめぐる風のように
              “媚び”と“恥じらい” 〜日本人の美意識はどこへむかうのか?
              日本の未来の色と投票率 〜選挙は義務化するべきか?
              街並みの色彩学 〜世界を狂わせているのは“黒”なのか?
              あけましておめでとうございます!! −年賀状のあれこれ
              企業のビジョン 
                   −「eneloop」の投じた石の波紋はどう広がるか?

              500円札をもう一度 
                   〜習慣としてのチップから気持ちのチップへ

              最も人柄が出る時間 〜結婚式で垣間見た愛に溢れた家族
              絶対的美は存在するのか?〜天然美人と整形美人を見分ける眼
              読書を習慣にしても無駄じゃない?〜読書週間に考える
              個人情報と匿名性 −情報を出さないデメリット−
              浄水器を通した牛乳は水になるか?- ナンセンスを楽しむセンス
              「いないフリ」をする社会 〜 形式化してしまった『挨拶』
              今の教育に足りないものは熱意とエンターテイメント性だ 
                   〜人となりを感じられる講演会

              IKEA(イケア)ついに日本上陸!!part3 
                   −文化の違いからみるインテリア

              IKEA(イケア)ついに日本上陸!!part2 
                   −スウェーデンの文化大使企業

              IKEA(イケア)ついに日本上陸!!
                   − 朝一でオープンに駆けつける

              エイジングとアンチエイジング
              SCM サムライ・チェーン・マネージメントとは 
                   〜藤巻幸夫講演会にて

              ブログを書きたくなる日はどんな日?
              人生のよりどころ 〜信仰をなくした我々はどこに向かうべきか?
              iPod nano 一押しケース!!
              IKEA 来春日本再上陸 〜日本のインテリアを面白くできるか
              都内に事務所開設〜不動産探しのあれこれ
              言葉にする事の難しさ 〜特許申請を通して
              大昔の「いっせいのせ!!」
              本当の幸せってなんだろう?
              からくりはいかに!!
              マレーシア・KLのOLファッション 
                   − 東南アジア縦断80日間

              マレーシア・KLのイスラム風現代建築とデザインモチーフ 
                   − 東南アジア縦断80日間

              ジョルジオ・アルマーニ展 part2 −【視野】と【視点】の取り方
              ジョルジオ・アルマーニ展 六本木ヒルズ 森美術館 part1
              六本木ヒルズ森美術館 
                   −都心型美術館の果たした役割と今後の展開

              センスとは??
              ■Googleニュース のカスタマイズ
              寝返り
              ベトナム・モン族の手業 − 東南アジア縦断80日間
              沖縄のビジネス服−かりゆしウェア
              LOHASを知っていますか?
              笑えます→新サービス “iPod My Photo”
              ■ブログのアクセス数急増!!
              ■こしょばい言葉 part2 − “セレブ”
              佐藤可士和の仕事 − 銀座アップルストアの講演会■
              この伊勢丹のコピー最高
                   →「恋が着せ、愛が脱がせる」 1989年 by眞木 準

              ベトナム・サパの黒モン族 − 東南アジア縦断80日間
              価格の正当性
                   − <値下げマンション>賠償求めた住民らの上告棄却 最高裁

              もっとスキンシップしませんか?
              ジコブン(自己分析)で憂鬱??
              ベトナム・バックハーの花モン族 part2 − 東南アジア縦断80日間
              ベトナム・バックハーの花モン族 − 東南アジア縦断80日間
              全行程地図 − 東南アジア縦断80日間
              JR福知山線脱線事故の報道を見て その2
              ■30オトコがギャルファッション!?
              JR福知山線脱線事故の報道を見て
              大阪とインドの相関 大阪弁≒ヒンドゥー語?
              伊勢という町の民族意識 その3
              伊勢という町の民族意識 その2
              伊勢という町の民族意識 その1
              ■パソコンテレビ「GyaO」 登録しちゃいました
              財務省がオークション?
              あなたの適性は??−エニアグラム
              お年寄りのいる街の優しさ
              関西の文化度−東西文化比較
              京の都−『陰影礼賛』の世界
              花見ならぬ、ブルーシート見でよいのか??
              ■初のアフィリエイト収入
              広告媒体としての“人”
              日本を“フルーツバスケット”!!
              ■こしょばゆい言葉
              個人資産 > 一国のGDP
              ■ホッと一息
              花見の時期もすぐそこに
              物の値段−売買システムの再構築
              インターネット広告費がついにラジオ広告を上回る
              ■スガシカオライブ 最前列か!!横浜ブリッツ&東京国際フォーラム
              「サッカーを通じて手をつなごう」
              ■無料ブログの使い勝手
              ■今までのブログ


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              目次001 2004.11.11-2005.02.09

              0
                どうもブログは過去の記事を参照しにくいので、
                ここで目次として一覧にしておく。

                目次001 2004.11.11-2005.02.09

                ■ブログ移行中
                「ブランド影響力」世論調査、アップルが首位に復帰
                言葉について −ドイツ編
                100年後の日本と日本語
                「勝ち組」のその後
                ■我が家のぼけぼけ日記
                ■Apple “Mac mini” 発表!!
                『生き生きと活きる』
                子供と知育玩具 〜「知識」と『知恵』の育み方〜
                日本の苗字7000傑
                ■あけましておめでとうございます。
                HAPPY HOLIDAY 宗教的マイノリティに対する配慮
                ■スマトラ沖大地震、死者6000人超 googleの足あと
                ■iPodを使ったマルチ商法
                みんなで並んで悩んでいるのはもうやめよう!!企画 
                     第一弾 躾(しつけ)

                言葉のセンス
                新しい自動車のカタチ
                ■背の高い人コミュニティ MIXI
                ■アクセス激増!!
                ■足跡残していってね!!
                ■通勤ラッシュによるストレスは戦場以上
                ■旅行のクチコミサイトト フォートラベル
                GREEとMIXI SNS比較1
                あなたは電車で化粧をしますか?
                ■Firefoxにブラウザ乗り換え
                ■RSS ニュースリーダー NewsGlue
                ■「GREE」株式会社へ
                ■視覚的原風景
                韓国人のホスピタリティ 
                ■検索できないもの
                ■♪ニョニョニョ〜
                ■慣習−宗教
                進路指導講演 part4
                進路指導講演 part3
                進路指導講演 part2
                進路指導講演 part1
                ■飼い主のいない素敵な野良犬
                ■進路指導
                ■時代の共通認識
                ■少しの遠回り
                ■見知らぬ人との会話
                インターネットにおけるプライバシー
                ■ここ数年のインターネット
                ■ブログデビュー!!


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                「いないフリ」をする社会 〜 形式化してしまった『挨拶』

                0
                   ある日のコンビニでの会話

                  店員「いらっしゃいませ」     客「・・・」
                    「198円になります」     「・・・」
                    「200円お預かりします」   「・・・」
                    「2円のおつりです」      「・・・」
                    「ありがとうございました」   「・・・」

                   これが友人との会話だったらどうだろう?
                  関係は長続きするだろうか?

                   かつて、日本の建築空間においては「見なかった・聞かなかったフリ」が関係をスムーズにするテクニックのひとつであった。石積みの空間に比べ、障子や襖の空間ではどうしてもプライバシーを保ちきれない。そうした空間の中では「見なかった・聞かなかったフリ」をすることが相手を尊重し、プライバシーがない中にも仮想プライバシーとでもいうようなものができ、人間関係が形成されていた。もともと個室という考え方のない日本の建築空間ならではのコミュニケーション文化がそこにはあった。

                   そして現代においては、日本の空間に障子や襖の空間はほとんどなくなってしまい、プライバシー重視の文化にあわせて空間も変化し「見なかった・聞かなかったフリ」をする必要はほとんどなくなった。しかし、そこには新たな問題が生まれてしまった。人口過密状態の都心などにおいて、例えば満員電車では他人と接触せざるを得ない状況が生まれる。そうした状況ではすぐ横に人が「いないフリ」をしなくてはいけない。瞬時に自分の殻にこもる必要が生じることになる。マンションなどでも隣近所の人も分からず、近くにいながら交差することのない平行線状態が生まれ、それはまさに近くにいながら「いないフリ」をする状況と等しい。地元というコミュニティがあるうちはそうした「フリ」をしたくてもできない。しかしそうしたしがらみのない人々がやってきて、平行線の生活をする人が増えるにしたがって、だんだんと「いないフリ」=「見なかった・聞かなかったフリ」をする文化が悪い意味で復活してしまったのだ。

                   いつのころからか忘れたが、店などで「いらっしゃいませ!!」という気持ちのよい挨拶に対してなにも反応を示さないというのには違和感を感じ、それ以降、コンビニでの買い物もこんな風に変わった。

                  店員「いらっしゃいませ」    客『こんにちは』(^^)
                                   『これお願いします』
                    「198円になります」    『200円でお願いします』
                    「200円お預かりします」    
                    「2円のおつりです」     『ありがとうございます』
                    「ありがとうございました」   スマイル&会釈(^^)

                   今さら挨拶の重要性を説くのもなんだが、もともとコミュニティにおける挨拶とは「敵意がないことを相手に伝える」ための手段であった。ここで多田道太郎の「しぐさの日本文化」より挨拶についての下りを少し引用しよう。
                  「現代社会では、慣習の体系を極小化してもやっていけるほど法体系が厳しく人びとを規制する――そして規制することで人を保護するようになって来たということなのである。〜たとえば挨拶といった慣習を守らなくても、もしそんなことで相手がおそいかかってくれば「ポリース」と叫べばよいのである。〜昔は逆に、法が守ってくれないから、みなにこやかに挨拶したのである。挨拶の中身は何でもいいのである。」

                   そして店舗などにおいて、挨拶を返さなくても敵意の表れと見なされないのは、商売において「お客様は神様」という権力を客が無意識に行使しているからにほかならない。すくなくとも、店員は客に対して挨拶をしながら、なにも返ってこないことにはストレスを感じるはずだ。そしてそれを当たり前だと思うようになると、その挨拶も形式化された無意味な行為となってしまう。

                   人の思考というのは面白いもので、挨拶だけではなく「いないフリ」=「見なかった・聞かなかったフリ」というのはあらゆることと連鎖している。例えば挨拶を形式化させないですることにより、モラルやマナーにおいても、「見なかった・聞かなかったフリ」をするのではなく積極的にコミットするようになるし、「他人だからいいや」というようにはならなくなり、コミュニケーションを形式化せずに、相手に対して、社会に対してコミットしようとする姿勢がそこに生まれるようになる。『気持ちよく相手とコミットしあえる社会』というのは「いないフリ」をする社会よりも確実に気持ちのよい社会のはずだ。

                   以前自分で書いたブログを読んでいたいら、こんな事を書いていた。
                   先日、東南アジア各国を旅していて思ったのは、
                  知らない人同士が気さくに話していること。
                  ジャカルタにいったときにインドネシア人の友達と待ち合わせをしていたのだが、待ち合わせの場所に行ったら彼女の隣で仲良く話している子がいる。「友達?」と聞いたが、たまたま横にいた子と話していただけらしい。

                   地方ではそうでもないのだが、今の東京では(特に都会では)そうしたことは少ない。逆に話しかけると身構えられる。隣に住んでいても話したこともない状況があちこちにある。

                   しかし、ネット上では会ったこともない人がこのブログを読んでくれ、そしてそれに対してコメントを書いてくれたりする。ここではリアルな状況とはまったく逆転してしまっているのだ。匿名性を利用した誹謗中傷はもってのほかだが、こうしたネット上のコミュニケーションのやりとりこそあるべき姿なのではないだろうか?そうした意味では、SNSはネット上のコミュニケーションをリアルなものにつなげていく可能性を秘めていると思っている。

                   こうしてまずは形式化されているものの意味を考え直してみると、そこには大きな穴が空いている。その穴の先に見るもの。それは思った以上に大きな暗い部分なのかもしれない。しかしその穴を埋めてあげることによって、そこには違う世界が見えるはずだ。それがどんな世界なのか是非見てみたいと思っている。

                                     (2006.07.23 一部追加)




                  CULTURE | permalink | comments(7) | trackbacks(0) | -

                  今の教育に足りないものは熱意とエンターテイメント性だ 〜人となりを感じられる講演会

                  0
                     以前は建築・デザイン・アート系の講演会にばかり行っていたのだが、特に建築においては国内のメジャーな建築家の講演はほとんど聴いたということもあって、最近はもっぱらビジネス系の講演会にシフトしつつある。そこにはビジネス社会の中でと建築・デザインの位置づけと役割をきちんと考えないと、業界自体が取り残されてしまうという危機感と、自分自身のこれからのスタンスがそこにあるのではないかという読みもある。

                     私が講演会を聞きに行く目的はいくつかある。ひとつは「講演テーマに興味がある場合」。もうひとつは「その人がどんな人なのかが知りたい場合」だ。講演テーマのみに興味がある場合は、本であったり、ほかの媒体でだいたいの情報を得ることもできるが、講演者の人となりや醸し出す雰囲気はそうした媒体では感じることが出来ない。「その人の雰囲気を感じられる」ところに生で聞く講演会の面白さがあると思うのだが、はたしてこうした期待にこたえてくれる人はなかなかいない。特に話好きな人が多い建築家の講演の中においても人間的に『魅力的な講演』には出会ったことがない。それは情報のみを伝える大学の淡々とした講義の延長といえるかもしれない。内容的におもしろくてその人の作品が好きでも、そうした講演会に対する私の評価は低い。講演会にも「エンターテイメント性やホスピタリティ、その人の人間性を求めるか?」と問われれば、私は迷わず“YES”とこたえる。

                     小説を書く時、自身の体験や人間性が求められるように、建築やアート、さらにはビジネスにおいてもその人間性は大きく影響してくると思う。つくった人の顔が見える仕事。人間味溢れる人が作ったものにこそ、本当の敬意を表したい。企業に属している場合は、その人の顔は企業の顔に成り代わってしまう。しかしこれからの時代、企業に依存することなく個人の顔でアピールしていく環境にシフトしていっている中で、その人のもつ魅力は仕事の出来だけでは評価されることはない。ホスピタリティやエンターテイメント性を含めた表現力、コミュニケーション力や人間性が大きく問われてくると思っている。

                     先日、起ちあがれニッポン DREAM GATE チーフプロデューサー吉田雅紀 (DREAM GATEとは経済産業省の後援を受けてDREAM
                    GATE運営事務局が行う起業・独立支援サービス)のセミナーに参加してきた。ドリームゲートには私も起業相談などでお世話になっているのだが、この起業ブームの中こうしたサービスを立ち上げた意義はかなり大きい。セミナーや起業相談など、多くのものが無料で受けられるのだ。こうしたサービスを立ち上げた吉田氏がどんな人物なのか。このセミナーに参加した目的はそこにあった。

                     場所を間違えて遅刻してきた彼はまさしく“気さくなおっちゃん”関西弁にユーモアを折りこみ、テンポよくそして熱く語りかける。話しかけるのではない『語りかける』のだ。そこには切れ者のイメージも、エリート気取りの嫌み加減もない。しかし、そのパワーには圧倒された。これは、藤巻幸夫の講演会で感じたパワーと同じだ。こうしたひたむきなパワーには誰もが打たれる。どんなに小綺麗にまとめてもこうした熱意とパワーには太刀打ちできない。団塊の世代が持っていた熱意が世代が若くなるに従ってクールダウンしていた。しかし時代はクールに装う時代からまた熱く語りかける時代に確実に戻りつつある。いや、同じ世代でもその差が激しくなっていると言った方がいいのかもしれない。

                     「教師こそエンターテナーたれ!!」これは私の持論なのだが、ついさっきNHKで爆笑問題の太田が東大で教養について東大教授陣と話していた中で同じようなことを言っていた、「学生が寝るのは授業がつまらないからだよ。」「読んでもつまらない文章書いたって誰も読まないよ?」エンターテイメントの世界で生きている彼等に言われるとそれがよく分かる。学ぶことの楽しさを教えるべき教師がこれでは学生が学ぶことを嫌いになっても仕方ない。優秀な教師が予備校にいて、学校にいないのはなぜか?文部科学省も真剣に考えるべきだし、我々も教育については意味あるお金を投資するべきである。私も修士論文を書いていたとき、人に楽しく読んでもらうために図版を多用してグラフィカルレイアウトし、文章も多少くだいて書いた。もちろんテーマ選定も今までにはないおもしろいテーマを見つけだし、内容も新鮮で興味を引くものができあがった。それを同期には「これは論文じゃない」といわれ、後輩には「雑誌みたい」と言われたのだが、私からすればこれはまさに意を得たり。さらに批判されると思って構えていた、おじいちゃん教授からも最高の評価をもらい、拍子抜けしたものだ。こうしたスタンスはスノッブなアカデミズムに対する挑戦であり、アカデミズムと一般の人とのつなぎ役である爆笑問題とも通じるものを感じる。おもしろい授業をすれば学生の学ぶ意欲は格段に上がる。その為には授業の質はもちろん、そこにはエンターテイメント性が必要になってくる。お笑いをしながら教壇に立てとは言わないが、少なくとも熱意とプレゼンテーション力にユーモアとサプライズを加えれば、授業も楽しく学ぶ意識も自然と高められるのではないか。

                     ドリームゲートの吉田氏は講演で「感謝−感激−感動−驚き」という事を言っていた。これはとてもうまい表現だ。感動の先が驚きという解釈は確かに頷ける。新庄が「記録よりも記憶に残る選手」と言われるのも、そこにはサプライズがあるからだ。たしかにこれには賛否両論があるし、度が過ぎれば批判もされる。しかし彼のエンターテイメント性溢れるプレゼンテーション力とサービス精神はファンを楽しませているのも事実だ。イチローは「ファンに歌を歌ったって喜ばないでしょ?」とロッテの選手が試合に勝った後にカラオケを披露したことを暗に批判していたが、ファンはこうしたサービス精神は大好きだ。「記録に残る選手」であるイチローがWBCで最近感情をむき出しにしてプレーしていたのも、クールに決める「記録に残る選手」の限界を感じたからなのではないか。


                     実は偶然にも講演会の後、帰り際に話をしていた若者達についていって一緒に飲むことになった。7歳くらい年下の彼らはまさしく「日本の未来は俺等が担っていく!!」と平成維新の会を結成した「熱い」男達だった。起業を目指し、真剣に自己の成長を求めて仕事をしている。なによりもお互いをライバルとして認めあいながらも尊重している姿はすがすがしかった。私の心意気も彼らに負けることはない。これからの日本と世界を担っていく同志に出会えたことは大きな財産だ。そうした熱意は確実に世界を動かしていく。こうした人材をもっと育てていくためにも熱意のある教育者を教育の場に引き抜いてくることは急務だ。楽天の元副社長が横浜の公立中学校の校長に就任した。企業のトップにいた人が公務員の環境になじめるか、IT企業のスピードについていけるかなど課題は多い。しかし、教育者の充実なくして日本の未来はない。そのためにも社会の熱意ある人々を教育の場に登場させ、社会との接点を作ることが近道だと思っている。


                    PEOPLE | permalink | comments(5) | trackbacks(0) | -

                    IKEA(イケア)ついに日本上陸!!part3 −文化の違いからみるインテリア

                    0
                       商品を見て回っているうちに、日本とスウェーデン(海外)におけるいくつかの文化の違いに気が付いた。

                        ■ 壁面にネジで固定する家具が多い
                        ■ セルフ塗装を前提とした無塗装家具がある
                        ■ カウンターなどの高さが高い
                        ■ 家具のシリーズ化、パーツの規格化
                        ■ 肩肘をはらない楽しみ方



                      ■ 壁面にネジで固定する家具
                       基本的に日本の賃貸住宅では壁には穴を空けないというのが、暗黙の了解のようになっている。それゆえ、最近の賃貸住宅ではハンガーレールを取り付けたりして対処しているが、古い賃貸ではそうしたものはないに等しい。こうした現状では、賃貸住宅で壁にねじ込む家具は欲しくてもなかなか使いにくいのが現状だ。それゆえ日本では吸盤式や両面テープ式のものが多いのだが、IKEAには全くなかった。IKEAは全世界ほぼ共通の商品群を販売しているので、日本に特化した商品企画はしていないだろう。こうした中で文化の違いがどう出るか興味深い。
                      ■ 壁掛け式の家具

                       私の借りているマンションは築30年以上経っており、管理会社からもこわごわ住むことはないと言われているので、壁にも結構穴を空けている。どうせ5年も住めば壁紙も貼り替えるのだし、多少ならパテで埋めておけばいいので、あまり気にせずやろうと思っているが、穴を空けにくい賃貸住宅の現状では壁掛け式家具は持ち家の人のみのものとなり、あまり延びないだろう。


                      ■  セルフ塗装を前提とした無塗装家具

                       もうひとつ面白かったのが、家具コーナーの横に、ペンキコーナーやノコギリなどの工具コーナーがあることだ。日本の家具屋にペンキコーナーはまずない。IKEAでは家具やインテリア=DIY(Do IT Yourself)として認識されているのがよく分かる。
                      ■ IKEAのペンキコーナー

                       
                       日本では家具屋とDIY店が同じ類のものとしてとらえられることは少ない。手ごろな価格でデザイン的な既製品とそれに連続するマテリアルを扱う店が日本にはなかった。DIY店にはマテリアルはあってもそこに デザイン的な視点はなく、東急ハンズも既製品とマテリアルの双方を扱っているけど、それらは完全に別のもので、マテリアルから既製品まで連続する商品構成 はIKEAオリジナルであり、これは自社企画製品だからできること。「既製品的にも売り」「パーツとしても売る」こうした売り方がもっと一般的になれば、 消費者にはさらにセミオーダー的対応ができるようになって一から作る事のない人にも選択肢が広がってマーケットとしては面白くなると思う。
                      自分で作ること、手を入れることによってそこには愛着が生まれる。

                      ものに対する愛着に関しては下記の式で表せると思う。

                        α(払ったお金)+
                         β(手に入れるまでにかけた労力・時間)+
                          γ(デザイン・機能のお気に入り度)+
                           Δ(そのものに対する思い出・依存度)
                             = 愛着度      αβγΔは各人における固有係数

                       時間も掛けずさっさと買ってしまった安物には愛着がなくても、自分で時間をかけ、気に入ったものができれば、そこには思い出も生まれ、必然的に愛着度は高まる。愛着度が高まれば必然的に使い捨て的感覚ではものを買えなくなるだろう。



                        カウンターなどの高さの違い
                       北欧の人は背が高い。そして、家具も彼等を基準に作られているので当然、日本の標準サイズよりも高くなる。いくつかのサイズを実際に比較してみる。


                             日本標準    IKEA
                      カウンター  800-850     870
                      ソファ    350-400   380-480
                      チェア    400-450   400-450

                                            単位はmm

                      ・ カウンター は特に使い勝手で身長差がでやすい。昔のキッチンは800mmが標準。最近は850mmにシフトしてきている。しかしIKEAのカウンターはそれよりも高い870mm。私などは日頃から800mmのカウンターでは低すぎて、立て膝で料理したくなる思いでいながら850mmのカウンターでも低いと思っていたいので、これくらいあればいいと思うのだが、背の低い女性や子供などには高すぎる高さだ。

                      ・ ソファ もかなり高めに設定されており、約5センチ日本の標準サイズよりも高い。オットマン(椅子に付属した足をのせる台)を使うのが前提となっている高さのような気もする。

                      ・ チェア はなぜか高さの差はない。これは少し不思議。

                       こうして比較してみると店舗内で「高いな〜」と言いながらソファに座っていたお客さんが何人もいたのがうなずける。この高さの違いはアジア各国を含め、世界中で販売されていることを考えると身長差だけではないような気がする。身長差に加えて“靴を脱ぐ文化”かそうではないかも大きな違いであろう。慣れもある程度あると思うが、高めのソファがどう受け入れられるのか興味深い。


                      ■  家具のシリーズ化、パーツの規格化

                       家具のシリーズ化は多くの家具メーカーが手がけている。しかし、それと共にパーツで販売するやり方はまだあまり馴染みがない。バリエーションという形でテーブルの天板の色や素材が変えられたりするやり方はあるが、IKEAでは天板と足を自由に組み合わせることができる。天板の素材・サイズが33種類、足が13種類、あり、それぞれの組み合わせによってひとつのテーブルを作る。天板だけでも買えるし足だけでも買える。こうしたシステムでは、壊れたり、ダメになったものだけ買い換えればいいので合理的かつ環境に優しいので理想的だ。全部がセット販売されるとこうした買い方はできないので、必然的に全部買い換えるハメになる。
                       さらにパーツ化はテーブルだけではなく、引出の取っ手や、細かいパーツまで単体で販売されている。取っ手がないデザインの引出等もあるが、必要ならば自分でつけてくださいというスタンスだ。セルフ塗装やこうした部品の追加をすることにより、より自分が好きなデザインにカスタマイズできる。
                       照明も同じだ。家具に内蔵できる小さなローボルトのダウンライトをはじめ、シェードと土台がそれぞれパーツで販売される。こうした販売手法はDIY店というよりも東急ハンズに近い。IKEAの競合店として、ニトリ、無印良品、フランフラン、通販のディノスなどの家具販売店を以前にあげたが、それに加えて東急ハンズなどマテリアル販売店とも競合してきそうだ。


                      ■  肩肘をはらない楽しみ方

                       日本に西欧のインテリアという概念が入ってきてまだ百数十年。インテリアコーディネーター資格を認定する社団法人 インテリア産業協会の前身、インテリア産業協議会が1978年にできてまだ30年弱。すごい勢いでインテリア文化を吸収しているとはいえ、西欧的インテリアの歴史は成熟度がまったく違う。まだまだ一般的に日本ではインテリア=非日常的なもの・お洒落なものであって、肩肘張ったところが多いのではないか?しかしIKEAをみていると『生活の中にインテリアが根付いている』そう感じた。息の抜けた北欧らしいデザイン、DIY的な感覚、多彩な色と柄、日常的なアートワーク、小物の遊び心 などそう感じた要素はいくつもあるが、何よりも“白一辺倒の空間”ではなく、そこには“色と柄と素材感”がある。そしてスパイスに“遊び心”を一振り。看板やHPにも登場する↓写真のハートのぬいぐるみは99円で売られていて、店舗内のあちこちにワゴンに入れられ、山積みで登場する。
                      ■ IKEAのマスコット的ハートのぬいぐるみ

                       どれも形がいびつだったり作りはチープそのもの。しかし、ひとたびワインに抱かせればプレゼントにピッタリだし、TシャツにつければオリジナルTシャツのできあがり。10個ほどつないで輪っかにすればオーナメントにもなる。こうした“遊び心”はまさに『生活を楽しむ』ことにほかならない。

                       ハートのほかにももっと大量においてあったものがある。

                      ■ 幸福のアイテム 蛇のぬいぐるみ


                       そう、それはこの蛇のぬいぐるみ達だ。入場の時には店のスタッフが首に巻いたり、これもハートと同様あちこちに山積みにされている。しかも値段は490円。何百、何千という大量の蛇たちに女性陣は嫌がっている人も多かったが、子供達は楽しそうに自分より大きい蛇を首に巻いたり、引きずったりしていた。
                      夢判断では『蛇が家の中や服の中に入って来る』

                      子供に良いことが起こる  家庭の幸福  
                      と、蛇は幸福を呼ぶ動物だ。シンガポールやパリのカタログや日本のHPには蛇は出ていなかったので日本オープン記念の商品だと思うが、こうした“遊び心”もまた楽しませてくれる。
                       アートワーク(絵や写真や彫刻など)をかなりの数扱っているのも大きな特徴だ。特に大きな額類が豊富で、ポスターとセットになっているものもあり、ここでは絵のある暮らしが日常になっている。このようにIKEAは家具やその周辺のものを売りながら、肩肘張らない『生活』を楽しむ雰囲気。そうした空気をうまく日本にも伝えてくれているような気がする。使いこなす術は売ってはくれない。あとはこれを我々がどう使いこなすかにかかっている。

                       そうそう、ひとつ書き忘れたことがある。店舗内は写真撮影OKだった。変にせこくない。これも大事なことだと思う。



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