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日本の未来の色と投票率 〜選挙は義務化するべきか?

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     先月は都知事選に区議会選と連続して選挙が行われたが、その中にネット上で話題をさらった都知事選候補者がいた。「日本沈没!!」などと言い放つ彼の立候補は端から見れば非常識な冷やかし立候補と言うことになり、メディアも取り上げることはなかったが、これが思わぬかたちでニュースになった。

     通常、時間と放映回数が決められている政見放送が、動画ポータルサイトの YouTube でアップされ、東京都選挙管理委員会がそれを削除するよう要請したというニュースだ。著作権の絡みかと思えば、どうやら正式な理由はそうではないらしい。理由は公職選挙法ではインターネットでの選挙活動を禁止しており、公平を期すため政見放送の放送時間や回数等を規定しているからだという。この規定により、いつでも見ることができるネット上の政見放送はこれに違反するらしい。時代錯誤なものである。有権者の立場に立てば、ネット上にアップしてくれた方が時間に関係なく見られ、NHKで早朝や深夜の余った時間に申し訳程度に放映されている政見放送よりもよほど意味がある。投票率の低下を国民のモラルの低下にばかり求めるが、法というシステムが時代に即していないのも原因の一つなのだ。
    *ネットを使った選挙運動についての記事

     ここで投票率について見てみよう。
    ■東京都の各種選挙における投票率
    衆議院選挙の場合は戦後からずっと60%程度をキープしている。
    しかし、これが都議会議員選挙や区市町村長選挙になると40%台にまで落ち込み、これらの20-35歳までの若年層における投票率は20%台にまで低下する。若年層の選挙権でみれば、日本では「二十歳選挙権」だが、現在の世界では「十八歳選挙権」およびそれ以下が大勢になっているという。個人的にはせっかく小中学校で投票が行われるのだから教育の一環として小・中学生レベルから政治に関わるような姿勢はあってもいいと思っている。教科書の中での政治ではなく、自分たちの未来を決める“身近な政治”を身をもって体験することが何よりも重要だと思うからだ。

    ■渋谷区議会議員選挙 40.60%
    ■東京都知事選挙   44.94%
     
     地域別に見てみると、江戸川区が最低の39.46%(有権者513,988人)。そして最高は利島村の 84.92%(有権者255人)こうした小さな村では若年層がおらず、高齢化が進んでいると言うこともあり、投票率も高くなっている。逆に言えば投票してない15%は投票に行くことができない人だったりするかもしれない。そしてコミュニティが存在するところには「選挙に行かないことは恥ずかしい」と思わせるある種の抑止力が働く。それは選挙だけではなく、あらゆるところで見られるが、都市部ではこうした抑止力は働きにくい。

     法は時代に合わせて柔軟に変えていくべきものなのだが、株式市場にしても、インターネットにしても、時代の流れが早くなり、法改正が追いついていない。一昔前までは単一民族国家の日本において、公共哲学的な意識もある程度統一されており、法制度の不備をこれでカバーする部分もあったが、最近は暗黙の了解や日本的な「言わなくてもわかる」と言ったような状況もコミュニティの崩壊とリンクしてもはや神話になりつつある。公職選挙法などは年に数回の行事なので、すぐにでも変えられるものだと思うのだが、変えるべき政治家自身がネットに疎いというのが一番の問題であり、インターネットによって自分の立場が危うくなる可能性もあるというせこい保身も見うけられる。インターネットで選挙活動ができるようになれば選挙資金が少なくても立候補できるようになり、立候補の敷居も低くなるだろう。逆に、資金力のある候補者が大量にブログ等を使ってアピールしたり、人気投票などを大々的に行えば、より大衆に受ける政策や発言に終始し、テレビ局の視聴率合戦と同じような結果になる恐れもある。しかし特に投票率の低い若年層にインターネットでアピールする場所ができれば、やり方次第で政治に対する意識向上も期待できるが、結局は有権者の判断力が求められることなる。そして日本の現状においては残念ながらそこが一番の問題であることにかわりはない。政治は雲の上の話では決してない。我々の日常生活に密接に結びついているのだから、本来は国家というシステムの上で暮らしていく以上、国民一人一人が政治家であり、批評家であるべきなのだ。

    『政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことができない』
                           トーマス・マン

     日本では選挙権は義務ではなく権利だが、義務投票制度を採用している国もある。その数は想像以上に多く、シンガポール、タイ、イタリア、ポルトガル、ギリシャ、ベルギー、オーストラリア、エジプト、トルコ、ブラジル、パナマ、アルゼンチン、ペルー、メキシコ、チリなど32カ国以上に及ぶ。(参考記事

     オーストラリアでは義務を果たさなかった場合、罰金は20-25ドル。こうして罰金が課せられるため、選挙での投票率は90%を越えているという。しかし、たとえ義務にしたとても、国民が政治に興味を持つことがなければ浮遊層を取り込むためにキャッチーな選挙活動をすれば勝てるという無意味な結果になりかねない。日本の政治家はこうした義務投票制度は民主的ではないと思っているらしいが、選挙権という権利すら行使することをしない現状では一つの処方箋として有効なのではないか。そしてシステムの変更とともに、そのシステムを有効に作用させるためには世界がどう動き、どう進んでいくのか、世界市民としての日本人の役割と方向性を議論する土壌を作って行かなくてはならない。グローカル(グローバルかつローカル)なシステムを考える人(visionary)の育成=教育と、システムを作る=政治の成熟は大きな課題として我々に降りかかっている。双方とも破綻を来している今だからこそ、ヴィジョンを持った教育と政治に未来を見いだせる社会のために手を挙げなくてはならないと思っている。

     昨年9月にYahoo!投票で行われていたアンケートのテーマが「日本の未来を色に例えると?」だった。一見なんでもないありふれた質問だが、ここには我々日本人のスタンスが鮮明に現れている。

    結果は


     灰色と無色はスタンス的には近いのでこの二つをまとめると54%となり、過半数を超える。そしてこの数字がほぼ投票率にリンクするという結果も興味深い。ビジョンなき国家に未来が見えないという結果は不思議でもなんでもない。バラ色の未来を見据えて政策を立案し、実際に行動できていれば、当然未来もバラ色に見えるだろう。しかしその見るべき未来が今は見えていない。見ようとしていないことが、白でもなく黒でもない灰色と、色づくことさえ拒否する透明という色に鮮明に現れている。しかしこれは他人事でもなく、自分たちの意思表示だと思っている。誰かがやってくれると思っているうちはこうした状況を打破することはできないだろう。「自ら変えていく!!」こうした意志を時代は要請している。

    『国家の価値は、結局それを構成する個人個人の価値である。』
                   ジョン・スチュワート・ミル

     今度はこう質問してみたい。
    「あなたの未来は何色ですか?」

                        (2007.05.21加筆)
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    あけましておめでとうございます!! −年賀状のあれこれ

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       かれこれ10年近く年賀状から遠ざかっていったのだが、今年は葉書、メール、mixiでのメッセージとあわせて300通の年賀状を書かせてもらった。さすがに全員にそれぞれメッセージを書くのは大変だったが、一人一人顔を思い出しながらの作業はなかなか楽しいものだ。

       小学生の頃から20歳頃までずっと多色刷りの木版画を彫っていたのだが、なぜ年賀状を書かなくなったかと言えば、楽しくもなく、単なる習慣になっていたので無理に書くのではなく「古き慣習から一度離れてみる」という気持ちだった。

       そして昨年。独立して初の仕事もみんなが満足して終わることができ、家族をはじめ今まで支えてきてくれた多くの人たちに昨年以上に感謝した年はなかった。そしてmixiが縁で20年ぶりに小学校の先生や友人達とも劇的な再会を果たし、途切れていた多くの線をまたつなぎなおすことができたことは大きな財産となっている。多くの人たちに感謝すると共に、このつながりを大事にするために遅ればせながら年賀状を再開することにした。はがきも魅力的だが、メールでも気持ちがこもっていればそれで十分だと思う。これからは「慣習」ではなく、「感謝」をあらわすものとして出していきたいものだ。今まで年賀状をくれた友人に返事も出さなかったのでかなりの友達も亡くしたことを申し訳なく思う・・それでも毎年出し続けてくれた友人には心から感謝したい。

       慣習も悪くない。返事がないから書かないというのではなく、私の気持ちを届けていきたい。そう思えるようになった32歳になる正月でした(^^)


       そもそも年賀状は年始の挨拶回りが簡略化されたものだという。平安〜明治時代までは1/1〜15までに、親戚やお世話になった人たちのお宅に直接挨拶に回る習慣があった。それが次第に1/2の書き初めの日に書状に書き留めて送るようになっていった。現在のように元旦までに送るというのはつい最近の習慣なのだ。なぜ元旦までに届けるのがよしとされるようになったか?
      1899(明治32)年、年賀郵便特別取扱開始
      一部の郵便局で、年賀状を年内の一定期間に出せば、1月1日の消印で元旦以降に配達する「年賀郵便特別取扱」が始まる。

       これにより、元旦に届けるのがよいとされるようになったのだ。元を辿れば郵便局の都合にすぎない。

       そもそもは1月2日の書き初めで書いていた年賀状なので松の内(一般に1月7日まで)に届けば失礼にはならない。その後も「寒中見舞い」2月の立春を過ぎても「余寒見舞い」として出すせば問題はない。

       その後、1873年(明治6年)12月1日 に郵便はがきが発行されたのを機に、今のはがきで書く年賀状に替わっていった。従来の飛脚便は一般人を対象としなかったので、この郵便はがきは一大ヒットサービスとなった。こうして通信制度の発達により、挨拶回り〜書き初めの書状〜郵便はがき〜メール〜BLOGでの挨拶と移り変わっているのだが、やはりメールでは物足りないと言う人も多いのは、過渡期だからというのもあるが、やはり物質としてのはがきの魅力、ものとして残る魅力は大きいと思う。

       年賀状離れが毎年報道されているが、実際のところどうなのかと思い、統計を調べてみた。
      ■昭和24年からの年賀葉書発行枚数の推移
       確かに発行枚数自体は平成16年度用の44億6千万枚をピークに減少している。人口で割った一人あたりの枚数を計算してみても平成16年度用34.95枚/人 平成19年度用29.65枚/人と16%の減少だ。しかし、これは郵便局が売り出すお年玉付年賀葉書の枚数で、一般のメーカーが出す年賀状や、PCでのプリント用はがきはここには含まれていない。ここ数年の家庭での初心者PCユーザーの拡大とソフト・プリンターの使い勝手の向上からくるプリント人口の増加を考えれば、16%という数字は誤差の範囲に入ると思うのだがどうだろうか?

       たしかに書かなくなっている人は増えているとは思う。しかし統計以外の年賀状も含めた全体の枚数がほとんど変わらない中で書き手が減っていると仮定すると、減っている分だけどこかで増えていることになり、毎年書いている人たちが枚数を増やしているということになる。PCがここまで普及していなかったときは住所も全部手書きで書かざるを得なかった。しかし今では住所さえ登録しておけばあとは簡単に多くの枚数をプリントすることができる。多少枚数が増えても、手で書くのでなければたいした手間にもならない。こうしたPCでばんばんプリントする人たちが書かなくなった人の枚数をカバーしていることは大いにありうる。現に年賀状を書いている人たちは毎年出す枚数が増えているという。お年玉付年賀葉書以外の統計をみないと正確な結論は出ないと思うが、“年賀状離れは一つの統計からだけからみた報道にすぎない”というのが私の仮説だ。  

       メールでの年賀状でも一つ気付いたことがある。以前に比べ、携帯やPCでのメール年賀状も減っていないだろうか?物質的なはがきの年賀状をやめ、メールに切り替え、年賀状自体の意義を再考したとき、非物質的なメールでの年賀状は、物質的なはがきの年賀状よりも簡単にやめることができる。印刷しただけの年賀状は味気ないのと同じで、コピペしたような慣習としてのメールもほとんど印象に残らない。それならいっそのことやめてしまえとなるのではないだろうか。それに加え、mixiなどのSNSなどでは簡単に近況を知ることができ、新年の挨拶もBlogにシフトした人たちも多い。これもまた新たな挨拶の形式なのだろう。

       現代人は挨拶回りを行っていた平安時代の人間関係の何十倍、何百倍も人間関係が広がっているだろう。そのぶん一人一人への対応密度が薄くなるのはある意味必然だ。時間の感覚も昔とは比べものにならないくらいスピードアップしている。こうした状況で人間関係が広がり、時間感覚が短くなっているとなれば、年賀状もビエンナーレ(2年に一度)やトリエンナーレ(3年に一度)にするというのも手かもしれない。日本郵政株式会社が売上を減らすようなことをするとは思えないが、感謝する回数を減らすのもなんなので、あっという間にすぎていく1年の終わりに数日、年賀状を書く時間を取れるのは幸せなことだと思う。95歳になる祖父は90近くで目が不自由になるまで毎年500枚近い年賀状を書いていたらしい。PCを使えるわけでもない全部手書きの祖父の達筆年賀状は今思えばほんとうに素晴らしい。

       今年も皆さまにとってより素晴らしき世の中になるように 祈りつつ、今後とも末永くよろしくお願いいたします(^^)


       PS 年賀状を書いている方は是非ご一報下さい。来年度はこちらから送らせて頂きます(^^)


                       (2007.01.05 加筆修整)


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      500円札をもう一度 〜習慣としてのチップから気持ちのチップへ

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         学生の頃、ファミレスに毛が生えた程度のレストランでバイトしていたときに何度かチップをもらったことがある。正確に言えばもらわなかったので、お客さんがくれようとしたことがあると言っておこう。その店では私以外にチップをもらったという話しは聞いたことがなかった。お客さんが楽しんで食事をしてくれるならと、バイトの裁量でできることはなんでもしていた。そしてお客さんとの会話が好きだった。手元が滑ってお客さんにワインをひっかけた事件はとてもサービスとは言えない思い出だが(笑)その頃からサービスを楽しんでいたのだと思う。

         あれから10年。引き続き建築設計というサービス業を続けている私だが、最近はサービスを受ける側としてもサービスの素晴らしい店を探すことに喜びを覚えている。と言っても高級レストランに行くわけではない。サービス料を請求する店のサービスがいいのは当たり前だ。そうした店ではなく、1000円以内で食べられるラーメン屋や定食屋のスタッフの素晴らしいサービス精神にふれたとき、目の前がパッと開けた感動を味わうことになる。

         ここでいうサービスは、物質的なサービスでも行為としてのサービスだけでもなく、マニュアル化できないようなスタッフの気配りや心意気、さらにはオーナーの思想や雇われているスタッフの人間性も含めたものだと思っている。

         サービスに対する意識の高いスタッフがいる店に入ったときは、なにも会話をしないときはほとんどない。オススメを聞いてメニューを選び、料理についての話を聞きその知識に感嘆したり、味やサービスについての感想を話す。話が弾めば普段は聞けない話を聞くこともできるし、多めにサービスしてくれることもある(^^)気に入った店で聞きたいことがないことはまずない。逆に対応が気に入らなければ注文する前に席を立つこともある。

         小さい頃からスタッフと気さくに話す父の姿を見ていた。資質もあるのだろうが、こうなったのも幼心に父親の影響が大きいと思っている。そして今では家族で食事に行くとみんなでスタッフを取り囲んで談笑するもんだから騒がしくて仕方がない(笑)

         美味しいんだけどサービスが・・・的な店には残念ながらまたいきたいとは思わない。サービスは料理に加える最後の重要なスパイスなのだからそのスパイスが素晴らしかった時には、感謝の気持ちを素直に伝えるようにしている。海外でも気持ちを表すために現地の言葉で「美味しかった」「ありがとう」「綺麗だね」だけは覚えるようにしている。

         しかし言葉だけでは気持ちを伝えきれないこともある。伝える余裕がないこともある。そうしたときにはチップを渡したいと思うのだ。でも1000円の食事に1000円札のチップというのは渡しにくいし、受け取りにくいと思う。コインというのもスマートではない。そこで、是非500円札に再登場してもらいたいと思っている。500円札ならもっと気軽に渡すことができるし、気軽に受け取ることができるはずだ。


        ■1994年に廃止された旧500円札 国立印刷局HP
        より

         チップも金額の数%というように習慣になってしまうと、渡す方も、もらう方も当たり前になってしまってありがたみなど全くない。しかし素直な感謝の気持ちとして渡すことができれば、受け取る方も気持ちよく受け取れ、サービスと気持ちが客とスタッフの間で循環する。サービスする側も相手が無反応なら、そのうちにサービスを義務と思うようになってしまう。挨拶一つとってもそうなのだが、こうした習慣の一方通行的な悪循環は現代社会が抱える大きな課題だ。そしてこれらの問題を解決していくために感謝のチップを推奨することは大きな意味があると思っている。

         制度の有無ではなく、“自己表現の場としてのチップ”がもっと広まっていけば、サービスの場ももっと楽しくなるはずだ。サービスをする側が楽しみ、サービスを受ける側がそれに答える。こうした目に見える気持ちの循環を促すために500円札の発行は一つの手段として面白いと思うのですが、安部首相、次の政策としていかがでしょうか?

         10年前にもらえなかったチップも今なら喜んでもらうだろう。お金に困っているからではなく、渡したいと思ってくれた気持ちに応えるために喜んで頂戴したいと思う。

         「スマートにチップを渡せるちょいエロオヤジ」これは今後の課題とすることにしよう(笑)

                            (2006.12.22 加筆修整)


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         せっかくなので1000円以内で食べることができるサービス精神溢れる店をいくつか紹介しよう。

        ■ 四谷 エリーゼ(洋食) 
         小さい店なのだが気の使い方が全てのスタッフで高いレベルにあり、サービス、雰囲気、メニュー、味、値段の細部にわたって現れている気持ちのいい店。私ならこうする!!と思ったことを見事に再現してくれたときは感動した。私が紹介したサービスのプロも絶賛したプロ意識の高い店。もっと近ければ毎日通いたい。

        ■ 新宿 ルモンド(ステーキ)
         フラッと引き寄せられて入った狭小店舗。こうした店を探す嗅覚は持っているのかもしれない(^^)たんなる小さな店だと思ったら大間違い。接客、焼き加減、値段、盛りつけ、無駄のない張りつめた空気。1000円で食べられるステーキとは思えない丁寧な仕事ぶり。あたたかみがある店とはまた違ったサービス。きちっとしている店は味もいい。

        ■ 幡ヶ谷 たけ虎(ラーメン)
         ここのおばちゃんのあたたかい雰囲気にはぐぐっと引き込まれて涙が出そうになった。奇をてらわない雰囲気が接客や味にも出ている。


        こうしたサービス精神溢れる店をご存じの方は是非教えて下さいね!!


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        絶対的美は存在するのか?〜天然美人と整形美人を見分ける眼

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           以前、整形について詳しい友人と話しながら美人だと思う人を挙げていて面白いことに気が付いた。ひとつは私の挙げた二人とも整形をしていない顔であるということ。そしてもうひとつが、綺麗なのだけどなんか違う。。と思っていた美人がほぼ整形顔だということだ。



           今や美人女優の代名詞ともなった↑を例にあげてみよう。確かに整った美人だとは思うのだが、なにか変なのだ。例えるなら蝋人形のような美しさとでも言ったらいいだろうか。それは広告用の写真だからではなく、TVで見てもその印象は変わらない。そんな彼女は整形業界では最高傑作と言われているらしい。

           挙げればきりがないが、私が綺麗だとは思うけどなにか不自然だと思っていた顔立ちの美人はほぼ整形美人だという話しには驚くとともに、感覚的ではあるのだが、「自然な人の顔」と「整形した人の顔」を見分ける審美眼がそこにはあるのではないかと思ったのだ。

           モノを見る目は、意識を持って見ることによって、ある程度まではトレーニングで鍛えられる。おそらく人の顔を何千、何万と見ているうちにそうした微妙な不自然さに気づくようになったのかもしれない。

           美術の専門家は自分の専門分野以外のものや、見たこともないものも鑑定しなくてはならない。そうした鑑定はほんとうに正しいのか??などと思うのだが、たくさんのものを見てきた「眼」と「直感」は初めて見たものでもかなりの確率で正しい判断をするという。
          参考文献 “第一感「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい”マルコム・グラッドウェル

           まさに私が整形美人に持った印象も「なんとなく変」という程度でしかない、しかし実際に整形の手術をする専門家が見れば「なんとなく」ではなく、どういう手法を用いたのかが分かるのだ。それは整形だけではなくあらゆる分野において知識と経験で判断できるものであるといえる。

           整形の可否をここで問うつもりはさらさらない。ただひとつだけ問題視するならば、単一民族の日本の弱点でもあるのだがあまりにも単一の価値観に縛られすぎていることだ。スターウォーズのルークが育った惑星タトゥイーンの風景は思い浮かぶだろうか?毛むくじゃらのチューバッカ、ロボットのR2−D2と3PO、トドのようなジャバザハット、蛙のような人もいれば、我々のような形をした人もいる。大袈裟な例えだが、こんな多民族国家の中では二重まぶたにしようなどとは思いもしないだろう。

           法隆寺の宮大工だった西岡常一は著書の中で興味深いことを書いている。
           木は人間と同じで一本ずつが全部違うんです。それぞれの木の癖を見抜いて、それにあった使い方をしなくてはなりません。そうすれば、千年の樹齢の檜であれば、千年以上持つ建造物ができるんです。これは法隆寺が立派に証明してくれています。
          −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           そうした木の性格を知るために、木を見に山に入って行ったんです。それをやめてどないするかといいましたら、一つは木の性格が出んように合板にしてしまったんですな。合板にして木の癖がどうのこうのいわないようにしてしまったんですわ。木の持つ性質、個性を消してしまったんです。
          ところが、癖というのはなにも悪いもんやない、使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいなもんですけど、うまく使ったらそのほうがいいということもありますのや。人間と同じですわ。癖の強いやつほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな。
          「木のいのち木のこころ」西岡常一・小川三夫・塩野米松

           教育も、そこから育った人材も、その人材が作り出すモノもみな「均質化」されてしまっている。これは「複製」とも関係してくる現代社会の重要なキーワードの一つだ。この西岡氏の言葉は様々なことに通じてくる。

           話しを元に戻そう。モノ作りにおける流行としてのファッションという文脈においては、デザインはもはや“いい悪い”ではなく“時代に合ってる”とか“好き嫌い”という個々の価値観でしか判断できないような状態に陥っている。そもそも絶対的美は存在するのか?「人工的な美しいもの」ももちろん美しいと思うが、もしそうした絶対的な美が存在するとすれば、それは「自然な美しいもの」なのではないだろうか。そして「自然な美しいもの」をほんとに微妙な差異から見極める眼を人間は持っている。

           プロダクトや建築のデザインにおいては、擬似自然的なデザインが10年ほど前から急速に増えてきている。建築においては3次元的な構造解析が可能になり、ランドスケープと一体化した有機的なデザインがもてはやされ、プロダクトにおいてもコンピューターによる3次元形態の造形が可能になったことにより、3次曲線を用いたデザインが成立するようになってきた。それと同時に人工物と自然物という違いこそあれ、こうした自然を模した「リ・デザイン」が行われている裏で、顔の「リ・デザイン」が併走しているという事実も見逃せない。

           「自然なもの」と「不自然なもの」を感覚的に見分ける能力が人工物をデザインする際に活かせるかどうかは今後の課題だが、知らぬ間にこうした天然物の美人と整形美人を見分ける目を養っていた事実は、モノ作りをする者としてはちょっと嬉しい(^^)これがたんなる偶然ではないことを祈るばかりだ。


          (2006.11.30 一部加筆修整  12.10 再修整)
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          読書を習慣にしても無駄じゃない?〜読書週間に考える

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             私も大学の時まではそんなに本を読まなかった。「好きこそものの上手なれ」必要性も感じずに好きでもないものを読んでもたいして頭には残らないものだ。

             しかし、大学で建築を学びはじめ、嫌々やる勉強ではなく、自ら進んでやりたいことを学ぶようになってそのスタンスは一気に変わった。恩師の反対を押し切って自分のやりたい研究をした大学院時に目を通した書籍は100,200といった数ではすまない。研究分野の前例がいままでになく、範囲が幅広かったのもあるが、その時に吸収した知識は今でも私の基盤となっている。

             それから7年が経ち、社会人としての経験も積み、退職を期に一度社会を俯瞰してみて自分の未熟さと今までいた世界の狭さ、世の中の広さ、そして先人が蓄積してきた人類の一員としての知識をもっと吸収したいという欲望が生まれてきた。

             「本は心の栄養」ではあるが、本は読まなくても死ぬことはない。しかし人類は文字を持つことによって、積み重ねてきた叡智を子孫に伝えることができるようになったのだ。口述で伝承されていたものが、文字が生まれたことによりそれまでよりも多くの人に伝えられ、翻訳と印刷技術の発展と運送のスピードアップによりそれは加速度的に広まり、ついにはインターネットアップされることにより、筆者と読者の時間的・物理的な距離はほぼなくなり、ダイレクトに情報は伝わるようになった。こうして人類の発展は文字情報の伝播の速度と共に急速に進化してきたといえる。その叡智は常識や暗黙知、一般教養として社会全体にはストックされているが、これらは人類が積み重ねてきた叡智のほんの一部にすぎない。その背後には一生かかっても吸収することができない巨大な知識の小宇宙が存在し、その大きさはブラックホールのように加速度的に拡大し続けている。

             こうした素晴らしい知識の小宇宙に必要性を感じなければ個人が積極的に吸収することはないだろう。しかしそれでは先人の経験や知識を存分に活かすことはできない。B.C.5000〜B.C.4000年ごろエジプトで石などに文字や絵画を彫刻して押印したころから見れば約7000年。15世紀ヨハネス・グーテンベルクの発明した活版印刷を起点にしても550年分の全人類の叡智がつまった「人類の百科事典」=本(情報)があるのだ。こうした素晴らしい先人の遺産を放棄することが賢い選択なのかは自明の理だと思うのだが、世の中の半分の人はそうは思っていないようだ。

            「1か月読書せず」49%、若者の本離れ進む
             

             毎年行っている読売新聞の調査なのだが、この結果よりも疑問に思うのが、
            本離れの歯止め策について聞いたところ、「家庭で読書の習慣を身につけさせる」51%、「学校で読書教育に力を入れる」47%――などが高かった。

            という結果だ。このアンケートが選択方式だったのか、自由記述だったのかは分からないが、こうした認識しかないようでは本を読まなくなっても仕方がないのかと思ってしまう。読書が有用であることは社会の擦り込みでなんとなく分かっているのだろうが、その明確な意味づけもできないようでは、本を読もうとは思わないだろう。たとえ家庭や学校で読書を習慣にしても、目的を持って読まなければその意味はほとんどない。小学校の読書感想文で好きな本を読むのならまだしも、指定図書を無理矢理読まされても苦痛以外の何者でもないのだ。そこに生まれるものは夏休みのイヤな思い出だけだ。

             あまり本を読まない人には 本=小説=娯楽 という構図があるのだが、小説は本の中のほんの一部でしかない。そして問題意識を持ち自発的に学ぶスタンスにおいては全体に占める小説の割合は次第に減ってくる。大切なのは読書の習慣ではなく、子供が興味を持ったものに問題意識を持たせて学ばせる環境と教育、それに人類における本(情報)の持つ意味だ。好きなことなら積極的に本から情報収集もするだろうし、そこから本を読む意味も見いだせるだろう。そして長年積み重ねられてきたこの素晴らしい「人類の百科事典」をうまく使う術を身につけることで、その人の人生の大きな羅針盤となることをうまく示してあげ、頭ではなく身をもって理解させてあげるべきなのだ。

             好きなことに興味を持たせて自発的に学べる教育を受けてこなかった大人が人類の積み上げてきた叡智を放棄してしまうのは、厳しい社会を生き抜いて行かなくてはならない我々には無謀とすら言える。こうした社会では、人生の羅針盤を本から吸収し、それをまた時代にあったものに再生産し、子孫に残していく事が我々の「努め」なのだと思っている。そして、それは決して「勤め」ではない。「勉(めて)強(いる)」ではなく自ら「学(んで)問(う)」をするとき、素晴らしき先人の叡智が活かされることになる。

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            個人情報と匿名性 −情報を出さないデメリット−

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               平成15年5月30日に個人情報保護法が成立して早2年が経過し、我々もちょっとした場面で多くの個人情報の扱いを明示した文章をみかけるようになった。しかし、ネットでの個人情報流出のトラブルは増え続け、実際にそうした謝罪が届いたり、私のように見知らぬ請求書が届いたり等ということも多くの人が経験しているのではないだろうか。大企業ではISO基準の個人情報保護に対応するためにかなりのコストと規制がかけられ、例えば顧客情報が少しでも入った資料をデスクの上に置いたまま帰宅するだけでも始末書ものだという。設計事務所で言えば、住宅等の図面も個人情報の塊だから、きちんと管理しなくてはダメだと営業に来た女の子に私もお叱りを受けてしまった。

               一方、そうした個人情報保護に対して過剰反応な部分も多く見られる。この法律自体が過剰反応という声もあるが、特に個人レベルにおいては、安全側を取り“情報はなるべく出さない方がよい=匿名性が高い方がよい”という思考が先行し、情報を「出すことのメリット」と「出さないことのデメリット」という視点がまだまだ欠けていると思っている。

               ここで個人情報保護法の概要を見てみよう。
              第1章 総則
               1 目的(1条)
              高度情報通信社会の進展に伴い個人情報の利用が著しく拡大
              → 個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護

               2 定義(2条)
              「個人情報」…生存する個人に関する情報(識別可能情報)
              「個人情報データベース等」…個人情報を含む情報の集合物(検索が可能なもの。一定のマニュアル処理情報を含む)
              「個人情報取扱事業者」…個人情報データベース等を事業の用に供している者(国、地方公共団体等のほか、取り扱う個人情報が少ない等の一定の者を除く)
              「個人データ」…個人情報データベース等を構成する個人情報
              「保有個人データ」…個人情報取扱事業者が開示、訂正等の権限を有する個人データ

               3 基本理念(3条)
              個人情報は、個人の人格尊重の理念の下に慎重に取り扱われるべきものであり、その適正な取扱いが図られなければならない。
               この概要から引用すれば「個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護」の「個人情報の有用性に配慮しつつ」というところが抜け、「個人の権利利益を保護」というところのみを拡大解釈しすぎているところが多々見られる。その一例が、ネット上における匿名性についての傾向だ。

               一言でネットと言っても、いろいろなサービスや形式があるが、ここではSNS(Social Networking Service)における個人情報を例に挙げてみる。

               まだmixiとGREEの登録者が大差なかった1年半ほど前、ブログでmixiとGREEの匿名性について書いた(記事はこちら)使い勝手やエンターテイメント性、アダルトサイトの有無、集まる人の種類などの違いはいろいろあるのだが、私はその匿名性の高さゆえにmixiが今後伸びていくと予想した。そして今のところ予想通りの展開になり、GREEよりmixiの方が匿名性が高く、登録者数もmixiがGREEに大差を付けている。(2006年8月現在の会員数はmixi約500万人、GREE約35万人)

               そうした匿名性の高いmixiの方に人気が集まる中で、果たして実名を隠さなければいけない理由があるのだろうか?と思いながら私は実名を公開している。
              「出さなくていいなら出さない。」
              「なんとなく出さない方がいいような気がする」
              と言うような気持ちは理解できる。そうした実名を出さない人が多いと、理由は関係なく雰囲気的に実名を使う人が少なくなるのも事実だ。みんなと一緒である安心感や安パイを取るというのは妥当な選択なのかもしれないが、もともと誰かの紹介がないと入れないシステムになっており、リアルな知り合いがいるはずなので実名を隠す意味はほとんどないし、逆にニックネームだとわかりにくい。まだネットでのセキュリティ環境も発展途上で確立されていない現状もあるが、実名すら公開しないというのは個人情報について過剰反応なのではないか?と思うのだ。サイト上で住所や電話番号を公開されているわけではないし、クレジットカードの番号を記入するわけでもない。日記も友達以外非公開にもできる。さらにメールもmixi経由でしか送れないので、送り主を特定できるし嫌なら拒否できる。個人的に被害を被りそうなところには様々な対策がすでに取られている。ブログ上で人の名前使う場合はニックネームにしたりする配慮は理解できるが、自分個人の情報をそれほど隠す理由があるとすれば、“誹謗中傷をする場合”や“アダルトサイトを利用したい場合”など言論の責任を回避するような場面しかしか思いつかないのだがいかがなものだろうか?それとも得体の知れないミステリアスな人というイメージを作りたいのだろうか?

               ここでは一例としてSNSにおける実名・ニックネームだけの情報ではなく、その人についての様々な情報を「出すことのメリット」「出さないことのデメリット」をいくつか挙げてみることにする。

              ■実名を出すことによって、思わぬ再会ができる。
               (実際mixiやGREEで連絡が途絶えていた友人や幼なじみ、小学校の同級生と再会できた ニックネームだと誰なのだかわからないのでこうしたチャンスもなくなる)

              ■自分をアピールする場と思えば、経歴も含めなるべく多くのことを書いた方がよい。
               (現在でも多くの人が名刺代わりに有効活用している 実際私も自己紹介を読んで興味を持ってくれた人と新たなつながりができたりしているし、面白そうな人にはこちらからコンタクトを取ったりしている)

              ■同じニックネームの人がいて紛らわしい。
               (実名も公開している人も含めて、私のマイミクにはヒロさんが3人 タローさんが2人いる)

               経歴や生年月日などの公になるような個人情報は調べようとを思えばいくらでも調べられるので、そうしたことを隠す意味はあまりない。それならむやみに隠すのではなく、公開したいものは積極的に公開してツールとして有効に使う方が理にかなっている。

               『ウェブ進化論』にて梅田望夫氏が、日米ブログ比較を行っていたが、その中で“実名で自己主張するアメリカ”と“匿名で書く日本”という日米の文化のにおける相違を書いている。自己主張をして存在を主張する文化と、周知のことは暗黙の了解としてしまう文化の違い。こうした文化的な違いはblogだけにとどまらず、あらゆる場面で表出し、SNSの匿名性とも同期している。

               個人情報保護法による過剰反応が落ち着き、情報を「出すことのメリット」「出さないことのデメリット」を吟味できるようになるまでにはもう少し時間がかかるかも知れない。しかし出さないこと以上に得るものがある。もともとリアルな関係をサイト上に反映させるというのがSNSの特徴なので、SNSサイト側も実名利用を推奨しており、今後実名利用によりサイトがさらに有効利用されるのは確実だと思う。(そのわりにmixiではマイミクとして表示されるのはニックネームで使いにくい。これはサイトの意図と反するので再考の余地がある)

               誰に見せるわけでもなくつれづれなるままに書きたいから書くだけのものは論外だが、匿名だから気楽に書けるというのでは自分の意見に責任を持っていることには決してならないし、そうした意見には実名で書かれたものほどの説得力はない。新聞記事でも署名がある記事とない記事とでは、かかってくる責任もかわってくる。

               政治の世界にも目を向けてみると、薬害エイズ問題、天下り、道路公団や防衛施設庁の談合などなど、どんなにひどい政策を立案しても懲戒免職されても官僚の名前が公開されないような日本の官僚の匿名性による組織的な責任逃れが、個人情報保護法でその壁がより厚くなったという。(参考『この国を、なぜ、愛せないのか~論戦2006』櫻井よしこ

               話が大きく飛躍してると思うかも知れないが、ネットはネット、リアルはリアルというようにうまく使い分けができるほど人間は器用ではないのだ。日本の政治における悪い意味での匿名性の文化は政治だけにとどまらずあちらこちらに残っている。そしてこうした匿名性をたてに言論における非常識な責任逃れをするような事はネット上ではさらに容易に展開できてしまう。報道の自由というスタンスを貫くような立場なら匿名の重要性は理解できるが(参考「きっこのブログ」メディアでは報道できないような既得権益に左右されないいろんな裏話満載)個人レベルの情報においては、匿名性はほとんど意味をなさないというのが私の今の結論だ。

               反論されようと自らの言動に責任を持つ文化をきちんと育てていくためにも、ただでさえ匿名性の高いネットでの匿名を助長するような環境は変えていくべきだと思っている『この国を、なぜ、愛せないのか~論戦2006』において櫻井氏はこう書いている。「匿名社会とは、誰も責任を取らない社会の出現を意味するのだ。」と。


               



              その他に気になった個人情報保護法の概要
              ・報道を目的としている場合適用されない
              ・死者の個人情報は法律の対象外


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              「いないフリ」をする社会 〜 形式化してしまった『挨拶』

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                 ある日のコンビニでの会話

                店員「いらっしゃいませ」     客「・・・」
                  「198円になります」     「・・・」
                  「200円お預かりします」   「・・・」
                  「2円のおつりです」      「・・・」
                  「ありがとうございました」   「・・・」

                 これが友人との会話だったらどうだろう?
                関係は長続きするだろうか?

                 かつて、日本の建築空間においては「見なかった・聞かなかったフリ」が関係をスムーズにするテクニックのひとつであった。石積みの空間に比べ、障子や襖の空間ではどうしてもプライバシーを保ちきれない。そうした空間の中では「見なかった・聞かなかったフリ」をすることが相手を尊重し、プライバシーがない中にも仮想プライバシーとでもいうようなものができ、人間関係が形成されていた。もともと個室という考え方のない日本の建築空間ならではのコミュニケーション文化がそこにはあった。

                 そして現代においては、日本の空間に障子や襖の空間はほとんどなくなってしまい、プライバシー重視の文化にあわせて空間も変化し「見なかった・聞かなかったフリ」をする必要はほとんどなくなった。しかし、そこには新たな問題が生まれてしまった。人口過密状態の都心などにおいて、例えば満員電車では他人と接触せざるを得ない状況が生まれる。そうした状況ではすぐ横に人が「いないフリ」をしなくてはいけない。瞬時に自分の殻にこもる必要が生じることになる。マンションなどでも隣近所の人も分からず、近くにいながら交差することのない平行線状態が生まれ、それはまさに近くにいながら「いないフリ」をする状況と等しい。地元というコミュニティがあるうちはそうした「フリ」をしたくてもできない。しかしそうしたしがらみのない人々がやってきて、平行線の生活をする人が増えるにしたがって、だんだんと「いないフリ」=「見なかった・聞かなかったフリ」をする文化が悪い意味で復活してしまったのだ。

                 いつのころからか忘れたが、店などで「いらっしゃいませ!!」という気持ちのよい挨拶に対してなにも反応を示さないというのには違和感を感じ、それ以降、コンビニでの買い物もこんな風に変わった。

                店員「いらっしゃいませ」    客『こんにちは』(^^)
                                 『これお願いします』
                  「198円になります」    『200円でお願いします』
                  「200円お預かりします」    
                  「2円のおつりです」     『ありがとうございます』
                  「ありがとうございました」   スマイル&会釈(^^)

                 今さら挨拶の重要性を説くのもなんだが、もともとコミュニティにおける挨拶とは「敵意がないことを相手に伝える」ための手段であった。ここで多田道太郎の「しぐさの日本文化」より挨拶についての下りを少し引用しよう。
                「現代社会では、慣習の体系を極小化してもやっていけるほど法体系が厳しく人びとを規制する――そして規制することで人を保護するようになって来たということなのである。〜たとえば挨拶といった慣習を守らなくても、もしそんなことで相手がおそいかかってくれば「ポリース」と叫べばよいのである。〜昔は逆に、法が守ってくれないから、みなにこやかに挨拶したのである。挨拶の中身は何でもいいのである。」

                 そして店舗などにおいて、挨拶を返さなくても敵意の表れと見なされないのは、商売において「お客様は神様」という権力を客が無意識に行使しているからにほかならない。すくなくとも、店員は客に対して挨拶をしながら、なにも返ってこないことにはストレスを感じるはずだ。そしてそれを当たり前だと思うようになると、その挨拶も形式化された無意味な行為となってしまう。

                 人の思考というのは面白いもので、挨拶だけではなく「いないフリ」=「見なかった・聞かなかったフリ」というのはあらゆることと連鎖している。例えば挨拶を形式化させないですることにより、モラルやマナーにおいても、「見なかった・聞かなかったフリ」をするのではなく積極的にコミットするようになるし、「他人だからいいや」というようにはならなくなり、コミュニケーションを形式化せずに、相手に対して、社会に対してコミットしようとする姿勢がそこに生まれるようになる。『気持ちよく相手とコミットしあえる社会』というのは「いないフリ」をする社会よりも確実に気持ちのよい社会のはずだ。

                 以前自分で書いたブログを読んでいたいら、こんな事を書いていた。
                 先日、東南アジア各国を旅していて思ったのは、
                知らない人同士が気さくに話していること。
                ジャカルタにいったときにインドネシア人の友達と待ち合わせをしていたのだが、待ち合わせの場所に行ったら彼女の隣で仲良く話している子がいる。「友達?」と聞いたが、たまたま横にいた子と話していただけらしい。

                 地方ではそうでもないのだが、今の東京では(特に都会では)そうしたことは少ない。逆に話しかけると身構えられる。隣に住んでいても話したこともない状況があちこちにある。

                 しかし、ネット上では会ったこともない人がこのブログを読んでくれ、そしてそれに対してコメントを書いてくれたりする。ここではリアルな状況とはまったく逆転してしまっているのだ。匿名性を利用した誹謗中傷はもってのほかだが、こうしたネット上のコミュニケーションのやりとりこそあるべき姿なのではないだろうか?そうした意味では、SNSはネット上のコミュニケーションをリアルなものにつなげていく可能性を秘めていると思っている。

                 こうしてまずは形式化されているものの意味を考え直してみると、そこには大きな穴が空いている。その穴の先に見るもの。それは思った以上に大きな暗い部分なのかもしれない。しかしその穴を埋めてあげることによって、そこには違う世界が見えるはずだ。それがどんな世界なのか是非見てみたいと思っている。

                                   (2006.07.23 一部追加)




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                エイジングとアンチエイジング

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                   “アンチエイジング” 女性には当たり前のようになってしまったこの言葉。しかしこれと反対の言葉、“エイジング”も大流行しているのには気づいているだろうか?エイジング加工もしくはアンティーク加工、ダメージ加工といくつか言い方はあるが、これらは全て意図的にエイジングするものだ。

                   エイジングは老化と言えば聞こえはわるいが、加齢ともに変化していくことだ。モノであれば『アジが出る』といい、これはわるい意味では使われない。最近多いのはファッションにおけるエイジング加工。特に革製品のエイジング加工は去年あたりから多く出ていて、使い古した革の雰囲気をうまく出している。これはジーンズのエイジング加工やダメージ加工に合わせるように出てきていて、アンチエイジングとはまったく逆路線なのがおもしろい。

                   学生の頃、研究室で建築や建材のエイジングを数量化するのは難しいといったような話をしていたことがある。天然素材しかなかった時代の建築はエイジングによって経年変化するとそれが『アジ』になる。しかし、最近の現代建築は『アジ』になる前に『ボロ』になるものが多い。これはコストの高い天然素材ではなく、コストの安い人工建材を用いることによっている。天然素材はエイジングによって雰囲気が出て『アジ』になる。しかし、人工素材は往々にして『ボロ』になってしまう。『ボロ』になれば必然的に取り替えざるを得ない。長く大事に使うというふうにはならないのだ。それに対して、『アジ』が出る天然素材は、メンテナンスして長く使われる。ヨーロッパの石造りの建築や日本の伝統的木造建築が長く使われるのも天然素材で作られ『アジ』を出し続けているからにほかならない。

                   これはファッションにおいても同じだ。ジーンズがこれだけ多くの人に履かれるのも、天然素材で作られ履けばはくほど『アジ』が出るからで、これが一番の魅力だと思う。私は高校生の時に買ったジーンズを今も履いている。お尻の部分は穴が空き、パンツが見えるくらいなのだが、長年履き込んですごくいい『アジ』がでている。これが化学繊維で作られたものならこうはいかない。最初はいいが、エイジングと共に『ボロ』になって捨てられてしまう。どちらが長く履かれるかは自明の理だ。

                   しかし、ここで問題なのは、エイジングを『アジ』として見ることができるか?である。いくら天然素材とはいっても履き古されたものは、たんなる『ボロ』としてしか見られない人もいる。裾をほつれさせるようなエイジング加工も祖父母の世代からすれば、『ボロ』にしか見えない。10年前に穴の空いたジーンズをはいている人はほとんどいなかった。しかし、今では穴だらけの加工をしたジーンズをはいた若者が街に溢れている。こうした“美意識”も時代の産物だ。そして、メディアやインターネットでいろいろな情報が簡単に入手できる現代は、単一化された“美意識”が作られやすい。そうした中で、昨年Doveで有名なユニリーバが作った広告を引用しよう。

                  ■ Doveの広告 2005年10月
                  どうして日本の女性は
                  自分の美しさに自信がもてないのでしょう
                  日本女性の10人のうち約9人が、
                  このように感じていることをご存じですか。
                  アジアの女性たちの、いちばんのファッションリーダーなのに、
                  いちばん「自分に自信がない」のも、
                  じつは日本の女性たち。ちょっと不思議ですね。
                  それはもしかしたら、わたしたちが、
                  誰かに決めつけられた画一的な“美しさの定義”に。
                  長いあいだ、縛られていたからかもしれません。
                  でも、Doveは信じています。
                  “ほんとうの美しさ”は、けっしてひとつではないと。
                  話しませんか、美しさについて。

                  写真左 一重まぶたの女性の写真
                  □ はれぼったい?
                  □ あいくるしい? 
                  大きな瞳だけがかわいらしいなんて、誰が決めたの?

                  写真中央 白髪の女性の写真
                  □ 白髪?
                  □ 華やか?
                  なぜ、女性は白髪になることをイヤがるのでしょうか?

                  写真右 そばかすのある女性の写真
                  □ いらないもの?
                  ほんとうに、“シミひとつない肌”だけが美しいの?

                   当時この挑戦的なコンセプトの広告が話題になったようだ。当たり前と言えば当たり前だから私としてはあまり驚かなかったが、あらためてこういう風にメディアから言われないとだめなの?日本人は?と思ってしまった。しかし、こうしたテーマ設定での広告はめずらしいのでブックマークしておいた。

                   個人的には美容的なアンチエイジングには全く興味ない。どうせ年取ればなくなるものなのだから、芸能人のマネしてそんな物になけなしのお金と時間をかけるより、年を取ってもなくならない知識や教養を得た方がいい。そう思っている。所詮、外見だけ磨いても張りぼてにすぎないし、生き活きと生きている人はそれだけで美容的なアンチエイジングよりも何倍も美しく見えるのだから。必要最低限、自分が持っているモノを美しく見せる努力はしてしかるべきだと思う。しかし、今のこの単一的な価値観しかない状況は異常だ。

                   いろいろなメディアの影響で、みんな普通にお洒落するようになった。エビちゃんOLなどと聞くと鳥肌が立つのだが、そんな張りぼてにはまったく魅力を感じない。逆に、こうした時代にお洒落には興味がないと言ってのける人の方が興味ある。そう言えるのもお洒落であることが普通な時代に、自分なりの価値観を持っているからだ。普通であることは何も考えなくていいので楽だし、風当たりもない。しかし、自分の価値観を持つというのはなかなか大変なことだ。普通であると思っている人に、そうではない価値観を説明するのは至難の業だ。なにせ相手は普通であることを疑ったことがないから普通でいられるのだから。普通という言葉も使い方が難しいが、ここでは「一般的に認められている価値観や共通認識」とでもしておこう。

                   ‘普通’のお洒落と‘個性的’なお洒落もまた意味が違う。普通のお洒落は「時代に乗り遅れたくない」「お洒落じゃないのはダサイ」など非積極的なものが多い。しかし人とは違う個性的なお洒落の場合、ある程度自分の価値観やものを見る目に自信がないとできない。そこにはそのひとなりの価値観の自己表現を見ることができる。千利休は千人に一人の目利きだと言われていた。それは自分の「見る目」に絶対的な自信を持っていたからであり、世間に認められた目利きであった古田織部はこうした千利休の「見る目」は自分は持てないと言っていた。あくまで自分価値観を押し通した利休にたいして、織部は世間の目をもってものを見た。織部を普通のお洒落と同じと見るのはかわいそうかもしれないが、この違いはおもしろい。普通にお洒落をするのも実は「自分に自信がないから」であり、お洒落もひとつのカモフラージュである。ファッションリーダーである日本人女性が「自分に自信がない」のもある意味それは必然なのかもしれない。


                  ■ エイジングの結晶 ベトナム カンカウマーケット 
                             感動するほど格好良かった花モン族のおばちゃん



                  ■ ベトナム バックハーの花モン族、ザオ族のおばちゃんたち


                   エイジングはファッションならよくて、人間には当てはまらないか?けっしてそうは思わない。年輪の刻まれた老人の顔には若くて綺麗なだけの若者にはない魅力を感じる。アンチエイジングなどと言う言葉すら聞いたことのない東南アジアで出会った彼女たちのこのシワに刻まれているのはまさしく『アジ』であり、けっして『ボロ』ではない。アンチエイジングはどうしても無理がある。理想的なのは格好いいエイジングだ。女性たちがアンチエイジングをありがたがるのは、男性がそうした女性像を求めている影響も大きい。メディアが作り上げた虚像をありがたがる前に、50年後の自分の顔を鏡を見て想像して欲しい。そこには『アジ』のあるシワが刻まれていますか?



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                  人生のよりどころ 〜信仰をなくした我々はどこに向かうべきか?

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                     mixiにとても素晴らしい子がいるのだが、私よりも若い彼女のブログからはいつもいろいろな刺激をもらっている。今年最初になるこのブログも彼女のブログを読んで書きたくなった。こんなあたたかくも心に残ることを書く子がいると思うと世の中捨てたもんじゃないなといつも思っている。

                    ―――――――――――――

                     大学同期の友人とこんなことを話していたことがある。

                     「俺らはバブルなんて全く知らないし、就職も大変だけどそれは決してマイナスではなく、波に勢いで乗せられることなく冷静に自分の道を考えられるからプラスだよ」と。

                     金の卵に始まり、高度成長期やバブルを経験してきた人たちが目指してきたのは、「豊かさ」という共通の目標。それが達成された今、次なる目標をゆっくり考えられると思ったら平和ぼけしたフリーターやニートが登場する一方、IT起業してばりばり稼ぐ人々も出てきたけど、信仰すらをなくしてしまった我々には「人が生きることについてのよりどころ」が信仰を持つ人々よりも明らかに少ない。

                     昨年、3ヶ月の東南アジアへの旅で宗教のある国の面白さと難しさに触れてきた。バリのヒンドゥー、インドネシア、マレーシアのイスラム、タイ、カンボジア、ベトナムの仏教。そしてこれらが混在しているシンガポール。これらの国を一度に見られたことで、宗教の持つ力を勉強してみたくなった。

                     太古の昔、信仰はひとつであった。いや、「もともと多様であった」と言った方がいいのかもしれない。人の力が及ばない圧倒的力への恐れ、憧れ、祈り。このひとつの源流から現代の5大宗教 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教や数々の宗教が生まれていった。現在、世界総人口の35%がキリスト教、19%がイスラム教、14%がヒンドゥー教、6%が仏教だという。

                     日本における宗教の信者数は、文化庁「宗教年鑑」によると、神道系が約1億600万人、仏教系が約9600万人、キリスト教系が約200万人、その他約1100万人、合計2億1500万人となり、日本の総人口の2倍弱の信者数になる。神道系と仏教系だけで2億人をこえる。これは、国家神道や学校教育の年中行事の影響で、多くの日本人が七五三や初詣、あるいは季節の祭りを神社で行い、江戸時代の寺請け制度の影響で、葬式や盆などを仏教式で行うなど、複数の宗教にまたがって儀礼に参加しているためである。

                     日本のキリスト教徒は総人口の1%を超えることはなく、教会なども欧米や25%のキリスト教徒を持つ韓国などに比べるとそれほど強い影響力を持たない。こうした国であってもクリスマス、バレンタインデー、ハロウィンなどのイベントを太古の昔から祝っているイベントのように振る舞っているのは、なんとなく神道や仏教と思っているだけで実際は宗教に対しての意識がほとんどないからだ。こうした特定の宗教を持たないという宗教観は、アニミズム的宗教観を根底に持つと言われる日本人らしい宗教観だとも言える。
                     雨乞いをし、農作物の豊作を祈っていた時代は信仰が生きていくこととイコールであり、死活問題であった。そうした中で農耕とともに信仰もより具体化していったのではないかと思う。現在、宗教がもとでおこった対立が世界各地であるが、これも宗教は人が生きていく上で必要不可欠なものであり、君主の支配や戦争の歴史の中に複雑に織り込まれてきた織物であるからにほかならない。各宗教の教祖は宗教的寛容さを持ち、争いとは対極の立場を取っていたはずである。しかし、生活の一部となった宗教はたえず争いの元になっている。信仰は人にとってのよりどころであり、根が深いものだけにそこにできた溝も深い。

                     完全分業が進んだ現代都市においては農耕をすることもなければ、狩りをすることもない。こうした中ではもはや信仰は蚊帳の外に追い出されてしまっている。しかし植物や動物ではなく人間として生まれてきた我々は、やはり何かのよりどころがないと弱い存在なのではないだろうか。資本主義経済を新たな信仰というひともいるが、これをPCのシステムに例えればゲームのルールにすぎず、OSに当たるものにはなり得ない。マック教かウィンドウズ教かリナックス教か選べと言われれば、私はマシンという名がぴったりのウィンドウズ教よりも人間味溢れるマック教だが、OSをわれわれ素人に作れと言われても作ることはできない。それゆえ誰かが開発したOSから選ぶことになるのだが、世界の多くの人がウィンドウズを選ぶように我々日本人もウィンドウズを選ぶ。同じようにアメリカ人がキリスト教を選び、日本人は何となく神道系か仏教系という選択をする。しかし、OSもそうなのだが宗教も歴史や伝統があるものとはいえ自分にぴったり合った宗教を選択することは難しいのではないか。現在すでにある宗教を勉強したいと思ったのも、あまりに宗教に対する知識がなく、もしかしたら共感できる宗教があるかもしれないと思ったからだ。「なければ自分で作ればいい」とまでは言わないが、生きていく上でのよりどころとして少しでも得るものがあればと思っている。最近始めたヨガもその一環だ。これについてはもっと勉強してから書きたいと思う。

                     そうした中でこれから我々がもっと意識しなくてはいけないのは信仰や宗教と言うよりも自分の哲学と言った方が近いかもしれない。宗教も突き詰めれば教祖や宗派の哲学が派生したものにほかならない。大きな意味での宗教・哲学はもはや誰かが作って皆で信仰していくものではなくなっている気がする。ローカルな共同体と一体化した信仰は残っても、情報化された都市社会の中では多様な個別の宗教=個々の哲学が意味をなしてくると思っている。農耕も直接関係なく、自然から離れた都市のなかで会社以外の共同体もなく暮らす我々に共通の宗教を信仰できるとは思わない。そうした環境の中では個人個人の哲学こそがその人の信仰とも言うべき存在になっていくのではないかと思う。「ソフィーの世界」が10年ほど前にベストセラーになって以来、哲学関係の本が増えてきているのもそうした裏付けになっている。簡単に個人の哲学などと言ってしまったが、これはみんなが悟りを開くようなものだからそうやさしいものではない。だが、人生80年を哲学すると思えば悟りとまではいかなくても、人生のよりどころを自分で悩んで見つけるくらいのことはできるのではないだろうか?そのためには小さい頃から哲学すると言うことを教育しなくてはならない。哲学というと小難しいが、マニュアルなしでも生きていける思考を身につけさせる教育だ。私自身そんなに大きく言えるほどの哲学をすでに持っているわけではないが、少なくとも50年後には自信を持って伝えられるようにはしているつもりだ。

                     私の曾々祖父はギリシャ正教の神父だったらしいし、祖父母はともに戒名を持つ仏教徒ではあるが、私自身はいまのところ自分を積極的無神論者と考えている。人の力が及ばない圧倒的な力を感じつつも、そこに具体的な信仰を見つけ出せてはいない。私は昨年自分の事務所を構え、これから自分のオリジナリティを積極的に世界にアピールしていきたいと願い出発したばかりだ。30になったこれからが勝負だと思っている。しかし、自己満足に終わらないか?果たして自分のやろうとしていることにどんな意味があるのだろうか?そしてこの資本主義社会の矛盾をいつも心に抱えている。環境配慮と言いながらた販売促進を掲げ、ゆとりゆとりと言いながらゆまぬ経済成長を願い、懸命に走り続けた企業戦士ほどぼろぼろになってリタイアし、老後の安心すら得られず、自分がやろうとしていることはこれでいいのかと立ち止まって考えたりする。職業に貴賤がないように、生き方に良い・悪いはあっても、正しい生き方というのはないと思っている。母親が以前に言っていた言葉が心に残っている。「結局、今どんな状況にあろうとも自分のやりたいことを楽しんでる人はハッピーだよ」悩まずに進めるのも才能だと思う。しかし、悩んで立ち止まって周りを見渡し、後ろを振り返り、みんなで楽しく歩み続けるのが私の選ぶ道なのだと思っている。この結果は50年後のお楽しみ!!もしかしたら日本を脱出しヨガを極めにインドで修行しているかもしれない。それもありだけどね(^^)

                    今年一年が皆さんにとって一番素晴らしい年になりますように!!という意気込みで毎年年を取っていきたい(^^)




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                    都内に事務所開設〜不動産探しのあれこれ

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                       30歳になったのを期に事務所兼自宅を都内に10月開設した。学生生活が長かったのと、設計事務所時代はあまりの薄給に一人暮らしもままならなかったのもあるが、仕事や今後を考えると今出るのは得策ではないと思いながらこの年までずるずると実家に世話になっていた。友人とも「通える場所に実家があるというのは独立するきっかけが少なくてなかなか出にくい。」と話していたのだが、念願の事務所開設&一人暮らしが始まってもうすぐ2ヶ月が経とうとしている。

                       この春から不動産屋を回り始め、9月になって本格的に物件を回り始めた。内見した物件はじつに35件。不動産屋も20件近く回っただろうか。これまでこんなに多くの物件を見て回る機会はなかったのでかなり勉強させてもらった。不動産業界の仕組み。建築基準法の矛盾。都内の生活環境と高家賃。あまり知らなかった場所へも足を伸ばし、いろいろな街を見た。

                       初めての不動産探しということもあり、大手の不動産仲介業者から地場の小さな不動産屋まで手当たり次第回ったのだが、基本的に不動産屋の情報源はどこもほとんど同じだという。自分のところで扱っている物件以外の仲介物件は、ほとんどの90%の業者が登録する不動産業専用サイトからの情報の引っぱりありで、仲介メインの大手業者では同じ条件で探してもらうと出てくる物件もほとんど同じということになる。あとは担当者の善し悪しでいい物件が出てくるかがきまる。

                       インターネット(フォレントなど)でかなり量を見ていたが、こうしたサイトに出ているオイシイ情報はほとんどあてにならない。不動産屋に電話をかけても「もう決まってしまった」といわれるのが落ちだ。こうしたオイシイ情報をエサに電話をかけさせ、そこから別の物件を営業していく手は不動産情報誌がインターネットに変わっただけで何も変わっていないという。たまにオイシイ物件があったりするが、なにかしらのマイナスポイントがある。敷金・礼金が安いのも条件が悪いから安くしている、もしくは敷・礼なしの物件も家賃に上乗せしているだでけトータルで考えると変わらない。オーナーとしても好んで安く貸す必要はないのだからマーケットプライスで設定するのは当然といえば当然だ。

                       事務所兼自宅ということもあり、生活環境にはこだわった。会社勤めで家にはほとんどいないならまだしも、日中も家で仕事する時間が多いので、陽当たりや風の通りが欲しかった。横浜の実家はマンションの5階最上階なのだが、丘の上に建っており東・南面が保存緑地になっていて、東京タワーやベイブリッジ、空気の澄んだ日には房総半島まで見渡せた。しかも最上階の特権で屋根勾配に沿って4m近い天井があり、EVなしの5階という条件をのぞけば生活環境は抜群だった。さすがにここまでの条件を都内で安い家賃で見つけることはできない。しかしいくつも物件を内見するうちに実家にあった“眺望”を重要項目として考えている自分がいることに気づいた。「空が広くないといや」だったのに気づいたときは自分の育った環境が与える影響の大きさにあらためて驚いた。

                       最後には「眺望・陽当たり抜群、駅近(5分以内)、1DK(35-40崢度)、角部屋、汚らしくない外観・エントランス10万以内」という条件はほぼ満たす物件を見つけることができた。しかし、これはインターネットや不動産屋の情報から見つけた物件ではない。結果的に大学の先輩が住んでいたマンションの上階に決めることになった。同じく建築で独立している先輩の部屋を見せてもらい、その上階が空いていると聞くやすぐに不動産屋に連絡し、翌日の内見の約束を取り付け、そのまま決めてしまった。築33年の古い賃貸物件なのだが、管理がすごくしっかりしていて外観やエントランスも仕事でお客さんを呼ぶにもみすぼらしくない。設備的には古さを感じるが、インドや東南アジアで一泊数百円の水シャワーしかない宿で旅してきたことを考えればお湯も出るし天国のようだ(笑)

                       ひとつ面白いサイトを紹介しよう。

                      ■東京R不動産■

                       このサイトでは独自の視点で物件を取り上げ、「眺望GOOD」「水辺・緑」「withペット」「改装OK」「天井が高い」「デザイナーズ」「倉庫っぽい」「屋上・バルコニー」などとカテゴリー分けして普通の物件では満足いかない人のために面白い物件を取り上げている。
                       ほとんどの物件は即予約が入ってしまい、実際に入居するというのは困難かもしれないが、不動産探しの新たな視点を提供してくれる。


                       仕事で順調に業績を上げて行ければ2−4年毎に引越したいと思っている。その前にこの周辺のうまい店を制覇しなくてはならない!!

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