こころとからだの建築家BLOG

住まいの統合医療で50兆円にせまる医療介護費を半減させる!!
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富士登山で考える 〜日本人の心のよりどころとしての富士山

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     太古の昔より、信仰の対象としての富士山は「かみ」の宿る聖地と考えられていた。
    ■ 雲から顔を出した富士山

     深夜2:00 枕ひとつ分しか幅がない雑魚寝状態で押し込まれた山小屋の寝床をはい出し、真夏の流星群の見える空の下、山頂へ向かう。山小屋のある8.5合目はすでに標高3000mを越え、高山病に苦しんでいる人もいる。登山道はすでに人で溢れていて、なかなか前に進んでくれない。富士山の登山シーズンは短く、毎年7月1日の山開きから8月26日の山じまいまでである。この時期に20万人が登ると言うからその混雑具合は半端なものではない。外国人登山者も多く、3割ほどいるらしい。そしてこの登山者数は世界一だというが、江戸時代後期の1800年(寛政12)まで富士山は女人禁制であったらしい。

    ■ ご来光を望むための深夜の大行列

     頂上はまだまだ遠い。真夏にもかかわらず体感気温は零度程度だろうか。風が吹けば寒さはスキー場並だが、それと知らずに来たハーフパンツ姿の若者が寒さに震えている。ヘッドライトをつけた蛇行する登山者の行列を見ていると、「風の谷のナウシカ」に出てくるオームの進行を思い出す。神秘的な風景はメッカ巡礼ならぬ富士巡礼。そういってもいいのかもしれない。

     富士山は最終氷河期が終了したあとに大規模な噴火を繰り返したため、高山植物などの生態系が破壊されており、山道に植物は極端に少ない。遠目から見る富士の雄大さを登山者は感じることができないので、ひたすら瓦礫の道を登っていく感覚だ。昔は登山は修行のひとつだったのかもしれない。しかし振り返れば雲の下に樹海や富士五湖、そして富士山自体が影となった「影富士」が大きく横たわり、その景色に飽きることはない。

    ■ 影富士

     高校時代、真冬の晴天時には自転車での通学路の真正面に富士山が見えた。この美しい山は今でも頭に残っている。そして今までは見る対象として存在していた富士山に今まさに、登っている。そしてゆっくりと、そして確実に太陽も昇っている。

    ■ 富士山頂上付近からのご来光
     『本朝世紀』によると1149年(久安5)に末代(まつだい、富士上人)が山頂に一切経を埋納したと伝えられている。いまも富士山頂出土と伝えられる埋納経が浅間神社に伝わっている。 富士山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮があり、富士山の神を祭る。そのため、富士山の8合目より上の部分は、登山道、富士山測候所を除き、浅間大社の境内である。*引用元 

    ■ 富士山の神を祭る、富士山本宮浅間大社奥宮

     江戸時代には富士山への登拜が庶民にも広く行われるようになり、富士信仰を強めていった。各地に残る富士塚は富士信仰の名残である。現代の日本人にとっての富士山は信仰の対象とは思っていなくても、心のよりどころであり、世界に誇ることのできる存在として我々の中に根付いている。

     富士山や伊勢神宮など多くの遺跡や寺社仏閣は、パワースポットに建てられているという。これは日本だけではなく、世界中で世界遺産があるようなところはだいたいがパワースポットらしい。古代インド哲学では「プラーナ」、中国に発する風水では「気」、ハワイでは「マナ」、日本でも「気」や「レイキ(霊気)」と言われる力が噴出する場をパワースポットというが、気功をやっている人などはこうした気を敏感に感じることができるらしい。美に対する意識を拡大してゆくと、パワーを感じやすくなるとも言われる。私も伊勢に行ったとき、背筋がぞくっとするような感覚を持ち、今回同じような経験を富士山でも持った。共に、荘厳さや美を感じたときに感じた事を考えると、この感覚は神聖なるものへの畏敬なのか、場所的な力への触手なのかわからない。しかし、今はまだ科学では証明しきれないだろう何かを人間は確かに感じることができる。現代都市において、身体で感じなくても生活していくことのできる我々はこうした能力が衰退してしまっているが、昔の人々はもっと敏感だったという。そして人の持つオーラ的なものも普通に感じることができたらしい。そうした人たちが見た富士山、そして登った富士山は確実に我々の富士山とは違って見えただろう。

    ■ 富士山頂上にある富士山本宮浅間大社奥宮の鳥居

     スピリチュアルブームの背景も、こうした感覚の復権から来ている。実際、今年富士山に登ったという話をあちこちで聞いたという友人が何人もいる。昨年まではこれほど登ったという話は聞かなかった。これも時代の流れなのだろうか。近代社会が否定してきたものをもう一度我々自身が振り返って検証してみる時期ということかもしれない。江戸時代、富士山の噴火で降灰した江戸の風景を思い浮かべながら信仰の対象としての富士山の長い一本道を下山した。人間社会もこれからは下り坂が続くかもしれない。しかしそれは今まで目指してきたものから見れば下り坂に見えるだけだ。登った坂は帰るときには下る。みんなで楽しく下って帰ろうではないか!!
                        (追記:07.09.03)
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    マンションは何年持つのか?その2 〜時限爆弾の導火線は抜くことができるのか?

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       耐用年数の違いは当然建て替えにも影響を及ぼす。ここで欧米各国の建て替えについての法律を見てみよう。
      ■ドイツ
      「大規模損傷を受けた場合、全員の合意のみで修繕・復旧が可能」
      ■フランス
      「老朽化による建て替えは全員一致」
      ■アメリカ 統一コンドミニアム法
      「80%の決議で区分所有関係が終了」
      ●日本
      1983年中曽根政権下で全員一致から「五分の四以上の賛成」へ転換。この法案成立時に都市開発を進める森ビル社長が参考人として法制審会議に出席し、都市再生と建て替えを訴え、再開発ラッシュの口火を切った。そして再開発により通常の倍の容積率を獲得し、開発利益が転がり込んでいるという背景がそこにはある。
                           (参考文献 *1)

       古い共同住宅は、建て替え時に今までの面積より大きな建物を建設し、その余剰分の販売によって建設費をまかなう再開発のやり方が常套手段だった。例えば代官山アドレスの超高層マンションも、もともとあった低層の同潤会アパートの敷地に再開発によって建てられたものであり、昔から住んでいた住民はその居住権をそのまま新しいマンションでも持つこととなった。こうした再開発の余地のある古いマンションを買い、再開発終了後に高値で売りさばくブローカーもいるらしい。しかしこのやり方は容積率に余裕がある場合にのみ成立するのだが、現在の新しいマンションのほとんどは、建築基準法の容積率いっぱいまでに緩和規定まで使って建てられているので、こうしたオイシイ再開発の手法は使えず、建て替えするとなればその費用はそのまま住民が負担することになる。そうした時期には住民もかなり高齢化していて負担は重くのしかかるばかりか、もし4/5以上の決議で建て替えが決まってしまったならば、行く場所がなく路頭に迷ってしまう可能性もある。
       実際に私が関わっているマンションでもスロープを付けるつけないといった議論でさえ住民の合意形成に10年近く費やしており、建て替えなどの大きな金額がかかるものとなるとさらに合意形成は難しく、無事に建て替えに至るケースはかなり少ないという。こうした状況でディベロッパーや販売会社は売り切ることによってその後はノータッチ、おいしいところを持って行ってあとはどうなっても知らんぷりなのだ。それでも仕方ないから、これしかないから人々はマンションを買うが、これが本当にいいやりかたではないはずだ。
       土地所有や住宅所有の考え方や運営方式、都市居住のあり方を再構築するにはあまりにも複雑な問題が絡みすぎている。建て替えをせずに10年−20年程度なら先延ばし先延ばしでいけるのかもしれない。しかし合意形成ができずに建て替えもできない状況においては、転売もできずに次第に住民が出て行ってしまうだろう。こうなるとあとは住民が死ぬのを待つか、廃墟になるのを黙ってみているかという状況になりかねない。特に800戸以上あるような超高層マンションにおいては合意形成ができないような状況は大いにあり得るので、今の高層マンションブームは一転、同時期に大きな社会問題になってしまう可能性を潜めている。

       容積率を緩和して再開発するやり方は麻薬的だ。行政が地図上で容積率数字さえ増やせば、地主もディベロッパーも収益が増えるので大喜びだ。得をする人はいても個人的に損をする人はいないことが余計にその麻薬性を増大させる。しかし、そうして高層化することが本当に都市にとって最適解なのか?人が生活するのにふさわしい場所なのか?そうした議論は置き去りのまま、数字の操作だけで話は進んでいく。おそらく今後もそうした政策で問題を先送りする可能性は大いにある。しかし、再開発の上に再開発をすれば、また都心の人口は増え、周辺の空室率は増加し、数々の違った問題が表出してくる。超高層に住む人の割合が増えればそこで子を育て、生活する人々への影響も大きな問題となってくるだろう。真偽についてはわからないし個人差もかなりあると思うが、そうした影響がもし本当に出始めているのならば、ディベロッパーはそうした事後調査を行い情報を公開するべきだし、住民も納得した上で購入していくべきだろう。
        ■参考HP (真偽はご自身で判断ください)
        驚愕データ! マンション住人は寿命が9年短い

       ここで批判をするだけではなく、現在の私の考えを最後に提示してみよう。
       ひとつは基本的に土地は個人の持ち物ではあっても国民の共有財産として地域の利益のために利用していくことが自然であり、ここまで投機の対象として利用されている状況は海外から見れば異常事態だという。特に国が国有地を切り売りしている状況は理解に苦しむ。国が一時しのぎの財政のために財産を切り売りするのが本当にベストの解答だとはとても思えない。長い目で見れば、国が運用していくという視点が必要ではないだろうか?話はそれたが地域がその中にある土地を有効に利用していく視点は、行政からの押しつけでは成立しないし、そこに住む人々が街を作るという視点が必要になってくる。イギリスのリースホールドが日本のような区分所有に近いコモンホールドに切り替わりつつあるというが、これに関しては日本は逆行してリースホールどという視点が必要なのではないかと思っている。

       そして、建て替え問題に関してはアメリカコンドミニアム法にあるような「80%の決議で区分所有関係が終了」という考え方がすっきりしていていいと思う。区分所有関係を解消し、土地や建物を売却しその売却益を分割配分することで、また新しくその土地にマンションをたてるのならばそこに戻るもよし、他に移るもよし、とすれば余計な問題を抱えることなく話を進められるはずだ。戸建てならまだしも、マンション購入=終身居住的な意識を持つことにそもそも無理があるのだ。RC造の場合47年の建物の減価償却期間が済んでしまえば、資産価値はなくなってしまうというのもおかしいが、建物がほとんど資産とならない状況で、さらに高層になればなるほど一世帯あたりの区分所有土地面積は小さくなるので、たとえ土地も含めて売却したとしても金額はしれている。やはり区分所有=資産所有とみるのはどう考えても無理がある。これがマンションにおけるひとつの幻想だと思うのだ。区分所有権とはいっても、状況を考えるとあくまで居住権の売買と考えた方が納得いくはずだ。それならディベロッパーは土地を所有したままのリースホールドにすればいいのだが、彼らはそれをしない。面倒なことをせずに売り切ってしまった方がうまみがあるのだ。

       もうひとつは基本的な生活の場所を確保するために、公的資金を使ってでも公営住宅をもっと充実させるべきであり、しかも今までのような通常のマンションタイプに加え、個室を持ちつつLDKを共有するシェアタイプを導入していき、ここには若者だけではなく、単身の老人も優先的に入居できるようにする新しいタイプの集合住宅の可能性もあると思っている。こうした住宅の運営管理にはNPOなどが担い、公共と言うよりも半公共的な立場で運営していくべきである。参考文献にも上げたが、『あなたのマンションが廃墟になる日 建て替えにひそむ危険な落とし穴』でもいくつかの事例が紹介されている。興味のある方はご一読を。

       最後にあげておきたいのは大家族の復権だ。家族だけでなく、新しい集住の形といってもいいかもしれない。これはまた面白いテーマなので、また次回以降にまとめて書く予定だがこれもまた住宅事情に大きく関わってくる。

       問題は複雑に絡み合っており、私自身まだまだ不勉強で今後の展開や方向性に対する意見がまとまってはいない。しかしノマドではなく定住する以上、住宅問題から逃げることはできない。施主のために建築を作るのも建築家のひとつの役割だが、住むためのシステムをないがしろにしてこれを行うのは本末転倒だと思っている。建築家にはどうしようもないと逃げてしまうのは簡単だ。しかし、『Voice of Design』(*2)という言葉があるように、目指すべき方向性について声を発することが個々のデザインよりも先にするべき重要なデザインであると思っている。

        ■参考文献
        *1『あなたのマンションが廃墟になる日 建て替えにひそむ危険な落とし穴』 
        山岡淳一郎 草思社
        *2 日本デザイン機構が発行する機関誌の名称
        『Newsweek 日本版 特集:住めば住むほど得する住宅』2007.03.14号 
        阪急コミュニケーション


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      マンションは何年持つのか?その1 〜各国の住宅事情比較

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         昨年から150戸以上ある築30年以上経ったのマンションの改修に関わっている。日本では高度経済成長にのって1950年頃から多くのマンションが建築され、多くのマンションが築30年をすぎた最近になって大規模な修繕や、いつまで持つか?といった議論が始まっている。近年、数々のディベロッパーにより超高層も含めたマンションが乱立し、全世帯数に対する住戸数はすでに10数%の供給過剰の状態となっている。方向性の見えない政策の上でディベロッパーの超高層開発が広げられ、真偽はともかく高層での生活による悪影響があるという研究結果もでているのもお構いなしに高層マンションブームはまだまだ続きそうな勢いだ。

         新築で購入する際にはマンションの寿命などあまり考えていないだろう。しかし寿命はいつかはやってくる。そしてその寿命が左右されるものはメンテナンスだ。長期修繕計画をしっかり立て、小規模修繕と併せて管理をしっかり行っているマンションは30年経ってもまだまだ現役だが、管理のずさんなマンションは10年そこそこでも古さを感じてしまう。現在関わっているマンションも、私が住んでいるマンションも築30年以上経っているが、管理はとてもしっかりしている。こうした管理があるのも、住民による持ち回りの管理組合がしっかり活動しているからであり、マンションにおいてはこうした組合の取り組み具合で寿命が決まってくると言ってもいい。

         管理組合や住民の方と話をすると、マンションの耐久年数について頻繁に聞かれる。しかしこうした住民の耐用年数に対する疑問をよそに、ディベロッパーなどの販売会社は一様に口を濁す。「一概に言えない」「ケースバイケースだ」などという答えしか返ってこない。たしかにどの様な状態になったら寿命なのかは主観的なものであり、状況もメンテナンス次第である。高層マンションが初めて建てられてからたかだか100年、超高層マンションに至ってはせいぜい30年と言ったところだ。まさに前例がない状態なので、販売会社が回答できない(明言を避けたい)気持ちはよくわかるし、実際私もそうとしか答えることができない。
          ■参考HP 日本のマンションの歴史


         1999年までの日本は鉄筋コンクリート住宅の「法定耐用年数(固定資産評価や税制上の減価償却年数)は、60−65年とされてきたが、実際は平均37年で再建されていた。そしてこれにあわせたように財務省は1999年に「法定耐用年数」を47年に短縮した。
        これに対して欧米の住宅リサイクル年数はイギリス「141年」、アメリカ「103年」、フランス「86年」、ドイツ「79年」となっている。中古住宅市場も日本は小さく、売買される中古住宅の割合はアメリカ77%、イギリス86%、フランス71%、に対して日本は13%と極端に少ない。これは日本のスクラップ&ビルドを際だたせているだけではなく、欧米におけるストック型社会と比べて、日本ではトータルの住宅建設費が倍以上(耐用年数が短い分だけ頻繁に建て替えなくてはならない)かかるということであり、そのぶん日本人は余計に働いて稼ぐか、他の支出を減らすことにより生活していかなければならない。これはフロー型消費社会においてはお金が動いていくので推進されるべきことなのだろうが、現状のままでは長期的な視点に立った豊かなストック型社会とはなっていかないばかりか、一生住宅ローンに追われる生活が孫の世代になっても変わらないという状態が続くことになってしまう。「初代が家を買い」「2代目が家具をそろえ」「三代目が食器をそろえる」というように代を越えて住宅や家具を長く使っていくような考え方は日本においてはまだまだ遠い先の話になりそうだ。

         最近見かけるSIマンション(SI=スケルトン・インフィル)は構造体からインフィル=設備や内装部分を分離し、より頻繁な更新が必要な部分を容易に工事できるようにしているシステムで、これにより100年マンションを目指している。このシステムで評価にしたいのは、ひとつの目標とはいえ100年という明確な数字を出してそれに向けての工夫をしているところだ。こうした姿勢は売ったらおしまいのディベロッパーとは一線を画す試みだと言っていいと思う。コスト的に見てもSIの場合イニシャルコストは5%ほど高いが、修繕を含めたランニングコストを含めると、100年住めば200-300万円程度安くなると言う。こうした数字も結果がどうなるかは100年先まで待たなくてはならないが、先がどうなるかわからない事をわかっていながら安く作って売ることだけを考えているディベロッパーが多々あることを考えると、こうした試みは評価すべきだろう。
          ■参考HP 究極のSIマンション
         
         日本では中古住宅が買ったときより値が上がることは、土地が上昇しない限り考えられないが、欧米では美観やメンテナンス、周辺環境の向上により、10倍近い値で売れることも珍しくない。特に欧米では街並みに対する意識が高く、いい街並みは確実に資産価値を上げる。日本でも今後こうした方向に向かうためにはまず土地制度を再考しなくてはならないだろう。これは街並み形成などにおいても参考になるのだが、興味のある人はイギリスのリースホールドが参考になる。

          ■参考HP 
          マンション管理・英国の概況 リースホールドとコモンホ一ルド


                             その2へ続く・・・
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        広大な空を駆けめぐる風のように

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          ■ 部屋の窓から見える270°の空

             空が好きだ

          設計した建築の写真を友人と撮りにいった
          私は空が好きなので アングルが自然と上に
          彼は地面が好きなので アングルも自然と下に
          間をとったらとてもいい写真ができた

             空が好きだ

          育った家も空が広かった
          上を見上げて 全体を見渡せる視線
          自分で部屋を探したときも
          求めていたのは その視線だった

             空が好きだ

          「今日の空 宇宙まで突き抜けそう」
          大好きな歌詞だ
          海には底知れぬ恐怖を、
          空には果てしない可能性がみえてくる

             空が好きだ

          「道を開けなさい 風のために」
          大好きな言葉だ
          「風」はカタチのある物質ではない
          地球の複雑なシステムから生まれる現象のひとつにすぎない
          大好きな空を駆けめぐる「風」のように生きていきたい

          POEM | permalink | comments(8) | - | -

          “媚び”と“恥じらい” 〜日本人の美意識はどこへむかうのか?

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             過熱気味のミスユニバース報道もそろそろ一段落してきたが、メディアの報道、ネットでの書き込みからみる視聴者の理解には、このコンテストの現実との大きな隔離があるように思えてならない。そのうちの一つはミスユニバースの選考基準についての理解である。いまだにミスコンというと、外見的な美しさだけというイメージが先行し、実際の選考基準とは違ったところで、美的な要素だけがクローズアップされてしまっている。コンテストの表に出てくる部分はルックス的な部分がほとんどであり、間違った理解とは言えないが、実はルックスとともにコンテストの審査には人間性も大きな割合を占めているという。 
             広報担当のエスセール・スワンさんによると、水着審査で健康的な肉体、ドレス審査で着こなしと表現力、面接で内面の美しさが審査される。「(全世界の女性が)手本とすべき女性」を探しており、審査基準は55年間変わっていないという。
             ミス・ユニバースの特徴の一つは普段の生活態度、特に人との接し方が観察されていることにある。審査会は1日だけだが、各国の代表はほぼ1カ月前に開催 国に入る。今年の場合、77人の美女たちは5月2日にメキシコに結集し、審査会当日の28日まで各地で現地住民と交流したり、HIV(エイズ・ウイルス) 撲滅のチャリティー・オークションに参加した。初対面の人ともうまくコミュニケーションできるか、疲れた時でも積極的でいられるか、が試されているという のだ。・・・ 世界一の美女に選ばれるには、スタイルや表情の美しさに加え、考えを主張する積極性や他人と友好関係を作る能力なども求められるようだ。【引用元リンク】

             本来“美”は時代や文化に依存し絶対的なものではないので、 “美”をインターナショナルに審査するこうしたコンテストは必ずしも理にかなったものではない。商業的なイベント性が押し出され、ミス・ユニバースの他にもミス・ワールド、ミス・インターナショナルといった同様のイベントも、それぞれの主催国の好みに寄った人が選ばれているという批判もある。

              ミス・ユニバース=アメリカがスポンサー=アメリカ人好み
              ミス・ワールド=ヨーロッパがスポンサー=ヨーロッパ人好み
              ミス・インターナショナル=日本がスポンサー=日本人好み


             しかしこうした選考基準と実際に受賞した彼女たちの立ち振る舞いから読み取れるのは「(全世界の女性が)手本とすべき女性」が、日本でもてはやされている理想の女性像とかなりかけ離れているのではないかということだ。一昔前は“恥じらい”が日本女性の一つの特徴として言われてきたが、時代の変化とともに“恥じらい”という美意識は次第に変化してきた。否定する人もかなりいるだろうが、その一つのキーワードが“媚び”なのではないかと思っている。
            媚びる(こびる)
            (1)気に入られるように振る舞う。相手の機嫌をとる。へつらう。
            「上役に―・びる」「権力に―・びる」
            (2)女が男の気をひくために、なまめかしい態度をとる。

            媚び諂う(こびへつらう)
            お世辞を言ったり機嫌をとったりして、相手に気に入られるように振る舞う。追従(ついしよう)する。
            「上司には―・い、部下には威張り散らす」 
                             【三省堂 国語辞典】より

             たとえば雑誌やTVで引っ張りだこのエビちゃんを嫌いだという男性は、その理由を“媚び”だという。おそらく自称エビちゃんOL達にはそうした意識はないのだろう。あったとしてもそれを肯定的に見ているはずである。そうでなければ“小悪魔”や“モテ〜”などという言葉がこれだけもてはやされることはない。さらに一昔前は“ぶりっこ”と言われていた行為が、今は“カワイイ”行為になったりしている不思議は時代の変化の綾としか言いようがないが男性諸君はどう思っているのだろう?自称エビちゃんOL達は否定するかもしれないが、“媚び”や“ぶりっこ”が一般化してしまうのも、美意識の変化と言ったらそれまでだ。しかし、それをもてはやすメディアと男性の美意識の反映であることは確かである。
             “恥じらい”は日本の美意識と言われてきたが、“恥じらい”=自尊心の欠如では決してない。
            自尊心:自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。プライド。
                                 【大辞泉】より

             しかし“媚び” は自尊心の隠蔽であり、欠如した状態だ。私にはこれを美意識というのにはかなりの抵抗がある。実際のエビちゃんはかなりさっぱりした男っぽい性格であり、メディア上の姿は演じられたエビちゃん像であるという話を聞くとよけい複雑な気分になってしまう。

             話をミス・ユニバースに戻そう。世界中から集まった彼女たちを堂々とインタビューに答え、積極的にコミュニケーションを取ろうとする人間性も豊かな美しい人物だとしよう。そして彼女たちの姿が「(全世界の女性が)手本とすべき女性」だとしよう。少なくとも彼女たちの中に、“媚び”や“ぶりっこ”といった美意識は見ることができない。だとすると、現在もてはやされている日本女性の美意識はローカルな美意識であり、ミス・ユニバースの理想とするグローバルスタンダードとは一線を画している。

             すべての日本女性が“媚び”を正当化しているわけではないし、これはメディアが作り上げた一つの美意識にすぎないが、これが多くの人々に受け入れられているのは事実である。これが我々が目指すべき方向性なのか、そして“カワイイ”がそのまま海外でも使われるようになったように、日本独自の文化として世界へと発展していくのか?それともミス・ユニバースの美意識を日本女性も踏襲していくのか。今後の日本女性、さらには日本男性の美意識に注目である。

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            日本の未来の色と投票率 〜選挙は義務化するべきか?

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               先月は都知事選に区議会選と連続して選挙が行われたが、その中にネット上で話題をさらった都知事選候補者がいた。「日本沈没!!」などと言い放つ彼の立候補は端から見れば非常識な冷やかし立候補と言うことになり、メディアも取り上げることはなかったが、これが思わぬかたちでニュースになった。

               通常、時間と放映回数が決められている政見放送が、動画ポータルサイトの YouTube でアップされ、東京都選挙管理委員会がそれを削除するよう要請したというニュースだ。著作権の絡みかと思えば、どうやら正式な理由はそうではないらしい。理由は公職選挙法ではインターネットでの選挙活動を禁止しており、公平を期すため政見放送の放送時間や回数等を規定しているからだという。この規定により、いつでも見ることができるネット上の政見放送はこれに違反するらしい。時代錯誤なものである。有権者の立場に立てば、ネット上にアップしてくれた方が時間に関係なく見られ、NHKで早朝や深夜の余った時間に申し訳程度に放映されている政見放送よりもよほど意味がある。投票率の低下を国民のモラルの低下にばかり求めるが、法というシステムが時代に即していないのも原因の一つなのだ。
              *ネットを使った選挙運動についての記事

               ここで投票率について見てみよう。
              ■東京都の各種選挙における投票率
              衆議院選挙の場合は戦後からずっと60%程度をキープしている。
              しかし、これが都議会議員選挙や区市町村長選挙になると40%台にまで落ち込み、これらの20-35歳までの若年層における投票率は20%台にまで低下する。若年層の選挙権でみれば、日本では「二十歳選挙権」だが、現在の世界では「十八歳選挙権」およびそれ以下が大勢になっているという。個人的にはせっかく小中学校で投票が行われるのだから教育の一環として小・中学生レベルから政治に関わるような姿勢はあってもいいと思っている。教科書の中での政治ではなく、自分たちの未来を決める“身近な政治”を身をもって体験することが何よりも重要だと思うからだ。

              ■渋谷区議会議員選挙 40.60%
              ■東京都知事選挙   44.94%
               
               地域別に見てみると、江戸川区が最低の39.46%(有権者513,988人)。そして最高は利島村の 84.92%(有権者255人)こうした小さな村では若年層がおらず、高齢化が進んでいると言うこともあり、投票率も高くなっている。逆に言えば投票してない15%は投票に行くことができない人だったりするかもしれない。そしてコミュニティが存在するところには「選挙に行かないことは恥ずかしい」と思わせるある種の抑止力が働く。それは選挙だけではなく、あらゆるところで見られるが、都市部ではこうした抑止力は働きにくい。

               法は時代に合わせて柔軟に変えていくべきものなのだが、株式市場にしても、インターネットにしても、時代の流れが早くなり、法改正が追いついていない。一昔前までは単一民族国家の日本において、公共哲学的な意識もある程度統一されており、法制度の不備をこれでカバーする部分もあったが、最近は暗黙の了解や日本的な「言わなくてもわかる」と言ったような状況もコミュニティの崩壊とリンクしてもはや神話になりつつある。公職選挙法などは年に数回の行事なので、すぐにでも変えられるものだと思うのだが、変えるべき政治家自身がネットに疎いというのが一番の問題であり、インターネットによって自分の立場が危うくなる可能性もあるというせこい保身も見うけられる。インターネットで選挙活動ができるようになれば選挙資金が少なくても立候補できるようになり、立候補の敷居も低くなるだろう。逆に、資金力のある候補者が大量にブログ等を使ってアピールしたり、人気投票などを大々的に行えば、より大衆に受ける政策や発言に終始し、テレビ局の視聴率合戦と同じような結果になる恐れもある。しかし特に投票率の低い若年層にインターネットでアピールする場所ができれば、やり方次第で政治に対する意識向上も期待できるが、結局は有権者の判断力が求められることなる。そして日本の現状においては残念ながらそこが一番の問題であることにかわりはない。政治は雲の上の話では決してない。我々の日常生活に密接に結びついているのだから、本来は国家というシステムの上で暮らしていく以上、国民一人一人が政治家であり、批評家であるべきなのだ。

              『政治を軽蔑するものは、軽蔑すべき政治しか持つことができない』
                                     トーマス・マン

               日本では選挙権は義務ではなく権利だが、義務投票制度を採用している国もある。その数は想像以上に多く、シンガポール、タイ、イタリア、ポルトガル、ギリシャ、ベルギー、オーストラリア、エジプト、トルコ、ブラジル、パナマ、アルゼンチン、ペルー、メキシコ、チリなど32カ国以上に及ぶ。(参考記事

               オーストラリアでは義務を果たさなかった場合、罰金は20-25ドル。こうして罰金が課せられるため、選挙での投票率は90%を越えているという。しかし、たとえ義務にしたとても、国民が政治に興味を持つことがなければ浮遊層を取り込むためにキャッチーな選挙活動をすれば勝てるという無意味な結果になりかねない。日本の政治家はこうした義務投票制度は民主的ではないと思っているらしいが、選挙権という権利すら行使することをしない現状では一つの処方箋として有効なのではないか。そしてシステムの変更とともに、そのシステムを有効に作用させるためには世界がどう動き、どう進んでいくのか、世界市民としての日本人の役割と方向性を議論する土壌を作って行かなくてはならない。グローカル(グローバルかつローカル)なシステムを考える人(visionary)の育成=教育と、システムを作る=政治の成熟は大きな課題として我々に降りかかっている。双方とも破綻を来している今だからこそ、ヴィジョンを持った教育と政治に未来を見いだせる社会のために手を挙げなくてはならないと思っている。

               昨年9月にYahoo!投票で行われていたアンケートのテーマが「日本の未来を色に例えると?」だった。一見なんでもないありふれた質問だが、ここには我々日本人のスタンスが鮮明に現れている。

              結果は


               灰色と無色はスタンス的には近いのでこの二つをまとめると54%となり、過半数を超える。そしてこの数字がほぼ投票率にリンクするという結果も興味深い。ビジョンなき国家に未来が見えないという結果は不思議でもなんでもない。バラ色の未来を見据えて政策を立案し、実際に行動できていれば、当然未来もバラ色に見えるだろう。しかしその見るべき未来が今は見えていない。見ようとしていないことが、白でもなく黒でもない灰色と、色づくことさえ拒否する透明という色に鮮明に現れている。しかしこれは他人事でもなく、自分たちの意思表示だと思っている。誰かがやってくれると思っているうちはこうした状況を打破することはできないだろう。「自ら変えていく!!」こうした意志を時代は要請している。

              『国家の価値は、結局それを構成する個人個人の価値である。』
                             ジョン・スチュワート・ミル

               今度はこう質問してみたい。
              「あなたの未来は何色ですか?」

                                  (2007.05.21加筆)
              CULTURE | permalink | comments(4) | - | -

              街並みの色彩学 〜世界を狂わせているのは“黒”なのか?

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                 数年前から建築や人の着る衣服も含めた街並みの色彩分析をしており、その中で都市の色彩的な特徴を読み取り、色彩が人に与える影響についていろいろ文献をあたり始めた。色彩から街を読み取る体系的な研究はほとんどないのだが、様々な文献を読み進めていく中で、今後の指針となりそうな手応えを感じている。

                 現代都市の街並みを俯瞰すると、ベースカラーは圧倒的に無彩色が多い。そこに看板や車、衣服が加われば色彩も入ってくるが、コンクリートや鉄とガラス、アスファルトに囲まれた空間のベースに彩度はほとんどない。しかも、街並みの中にいる人々の衣服もかなり割合で無彩色が見られる。

                 これを自然の中と比較してみよう。青い空に、青い海、緑の森や草原に、茶色い土や樹木の幹、色彩豊かな花々。断崖絶壁の岩山や砂漠の中でも岩や砂は赤みがかっている。こうしてみると自然の中に無彩色はほとんどないことに気付く。雪と夜の闇がかろうじて無彩色だろうか。

                 人類は数百年かけてこの無彩色都市を作ってきたのだが、我々は現代都市の無彩色空間にあまりに慣れてしまっている。人間の適応能力は素晴らしいものだ、しかし数万年も暮らしてきた色彩豊かな自然界から見れば全く異質な無彩色空間に我々は本当に適応していると言えるだろうか?

                「色彩生命論 イリスの色」野村順一では色彩療法なるものがBC500年頃ピタゴラスによって用いられていたといい、自然光の重要性と、色が発する無意識的影響について書かれているので興味深い事例をいくつか参照してみよう。(「」内は引用文)

                ■「どんな人でも真っ白い衣服を2日着ただけで、風邪が治るとさえいわれている」

                ■「同じ大きさのトマトを3つ摘んで、一つは白い布地、二つ目は赤い布地、三つ目は黒い布地で包み、日光の当たるところに置きます。――白い布地のトマトはつるで実ったトマトと全く同様に自然に熟していました。赤い布地の中のトマトは、熟し過ぎていて、切ってみると種と果肉のいたるところに黒い痕跡がみられ、醗酵していました。黒い布地の中のトマトは、全く熟していませんでした。緑色のままで、しかも切ってみるとしなびて腐っていたのです。」

                 白い色は全ての色波長を伝導し、体にまで色(光)が届くから身体にいいという。

                ■「教会のステンドグラスの赤、赤紫、緑、黄の透過光が病人をなおすと考えられ、その色光の効力は祈りと音楽(音響療法)で高められた」

                ■1875年にポンザと言うヨーロッパの医者が行った色彩療法では
                「無口の妄想患者は、赤い部屋に収容されて3時間すると、陽気でで快活になりました。また、拒食症の患者は、赤い病室に入れられると、朝食はなんでもいいと要求したばかりか驚くほどガツガツと食事を貪るようになりました。さらに、凶暴な患者は、拘束服を着て青窓の病室に閉じこめられたのですが、1時間も経たないうちに穏やかになってしまったのです。」

                ■「ピンクの蛍光灯はイライラや動揺を生み出す」

                ■「ピンクや黄色の蚊帳は蚊を寄せ付けない」
                 人間と虫と視覚の違いはあると思うが、たとえば回転率を上げたい店の内装に黄色を使うのは、無意識の黄色に対する嫌悪感を利用し、早めに帰らせるためだという。

                ■「青色蛍光灯だけに人間が絶えず晒される生活環境を想定すると、そこから生まれてくる子供は、女子が70%、男子が30%となり、――現在の都市環境では多分にこのような状況に近づきつつある」というおそろしい仮説まである。

                ■「屋外のプールや浜辺で有害な紫外線から身を守るためには、黒が有効なのです。しかし、一般に日照率が低い地域や、太陽光線が乏しく常にスモッグに覆われた都会では、逆に、黒が有効な太陽光線のすべてのスペクトルを吸い取り、体に色を栄養として透過してくれません」

                ■「イタリアの美容研究家は『女性は黒い衣服を着てはいけない』と力説しています。その理由は、黒が女性の皮膚をいためるため、逆効果になるからです。」

                ■無彩色のマイナス効果
                 身の回りのものを無彩色にすることが、精神科にかかる人が急増している原因だとしたら、それは建築や衣服の色について再考しなくてはならない。
                ・黒
                「気が滅入っているときに使ってはいけません。人々から切り離された孤独感をますます高じさせる事になりかねません。」
                ・白
                「ある環境にあまりに多く白が使われると、孤独感を強めてしまいます。」
                ・灰色
                「優柔不断をさらに悪化させ、過剰な興奮や軽率さを抑えることができますが、つまらないものをさらにつまらなくしてしまいます。」
                 

                 基本的にこれらの事例は従来の色彩心理学をベースにするのではなく、色彩生体学とでも言った方がいいのかもしれない。全盲の人でも色を感じることができるというように、目に入る光としての影響以上のものを色は持っている。心理学だと意味論も含まれてくるが、もっと無意識の段階、意味を排除した動物としての人間、大脳新皮 質をすり抜けて脳の旧皮質までダイレクトに色彩(光)が与える影響がたくさんあるのではないかというところに注目している。

                 我々は身の回りの色について完全に麻痺しているようではあるが、無意識の中では確実にこれらの色(光)が与える影響が出ている。そうなれば街並みの建物や服装の色彩が人に与える影響はかなり大きいはずだ。しかし、そうした色彩論は全く確立されていない。

                 まだまだ検証の段階ではあるが、数々の事例を見ても、日頃我々が多用している黒をはじめとする無彩色が身体にとっていい環境であるとは言えなさそうだ。迷走する現代社会の根幹を探っていくと、もしかしたら『色彩の誤用』が一つの大きな原因となっているのでは?すら思えてくる。

                 色彩が身体に与える影響がどこまで研究されているのかこれからさらに突き詰めて調べていくつもりだ。情報も世界に行き渡り、ワールドワイドなグローバルデザインが世界を席巻した現在、もはやファッション的に形を弄ぶだけのデザインはメインストリームから退いてもらおう。そうした中で体を包む「21世紀の衣服と建築」と街並み形成のベースは色彩分析から始まるのではないかと思っている。

                                (2007.02.03 加筆修整)

                DESIGN | permalink | comments(14) | - | -

                あけましておめでとうございます!! −年賀状のあれこれ

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                   かれこれ10年近く年賀状から遠ざかっていったのだが、今年は葉書、メール、mixiでのメッセージとあわせて300通の年賀状を書かせてもらった。さすがに全員にそれぞれメッセージを書くのは大変だったが、一人一人顔を思い出しながらの作業はなかなか楽しいものだ。

                   小学生の頃から20歳頃までずっと多色刷りの木版画を彫っていたのだが、なぜ年賀状を書かなくなったかと言えば、楽しくもなく、単なる習慣になっていたので無理に書くのではなく「古き慣習から一度離れてみる」という気持ちだった。

                   そして昨年。独立して初の仕事もみんなが満足して終わることができ、家族をはじめ今まで支えてきてくれた多くの人たちに昨年以上に感謝した年はなかった。そしてmixiが縁で20年ぶりに小学校の先生や友人達とも劇的な再会を果たし、途切れていた多くの線をまたつなぎなおすことができたことは大きな財産となっている。多くの人たちに感謝すると共に、このつながりを大事にするために遅ればせながら年賀状を再開することにした。はがきも魅力的だが、メールでも気持ちがこもっていればそれで十分だと思う。これからは「慣習」ではなく、「感謝」をあらわすものとして出していきたいものだ。今まで年賀状をくれた友人に返事も出さなかったのでかなりの友達も亡くしたことを申し訳なく思う・・それでも毎年出し続けてくれた友人には心から感謝したい。

                   慣習も悪くない。返事がないから書かないというのではなく、私の気持ちを届けていきたい。そう思えるようになった32歳になる正月でした(^^)


                   そもそも年賀状は年始の挨拶回りが簡略化されたものだという。平安〜明治時代までは1/1〜15までに、親戚やお世話になった人たちのお宅に直接挨拶に回る習慣があった。それが次第に1/2の書き初めの日に書状に書き留めて送るようになっていった。現在のように元旦までに送るというのはつい最近の習慣なのだ。なぜ元旦までに届けるのがよしとされるようになったか?
                  1899(明治32)年、年賀郵便特別取扱開始
                  一部の郵便局で、年賀状を年内の一定期間に出せば、1月1日の消印で元旦以降に配達する「年賀郵便特別取扱」が始まる。

                   これにより、元旦に届けるのがよいとされるようになったのだ。元を辿れば郵便局の都合にすぎない。

                   そもそもは1月2日の書き初めで書いていた年賀状なので松の内(一般に1月7日まで)に届けば失礼にはならない。その後も「寒中見舞い」2月の立春を過ぎても「余寒見舞い」として出すせば問題はない。

                   その後、1873年(明治6年)12月1日 に郵便はがきが発行されたのを機に、今のはがきで書く年賀状に替わっていった。従来の飛脚便は一般人を対象としなかったので、この郵便はがきは一大ヒットサービスとなった。こうして通信制度の発達により、挨拶回り〜書き初めの書状〜郵便はがき〜メール〜BLOGでの挨拶と移り変わっているのだが、やはりメールでは物足りないと言う人も多いのは、過渡期だからというのもあるが、やはり物質としてのはがきの魅力、ものとして残る魅力は大きいと思う。

                   年賀状離れが毎年報道されているが、実際のところどうなのかと思い、統計を調べてみた。
                  ■昭和24年からの年賀葉書発行枚数の推移
                   確かに発行枚数自体は平成16年度用の44億6千万枚をピークに減少している。人口で割った一人あたりの枚数を計算してみても平成16年度用34.95枚/人 平成19年度用29.65枚/人と16%の減少だ。しかし、これは郵便局が売り出すお年玉付年賀葉書の枚数で、一般のメーカーが出す年賀状や、PCでのプリント用はがきはここには含まれていない。ここ数年の家庭での初心者PCユーザーの拡大とソフト・プリンターの使い勝手の向上からくるプリント人口の増加を考えれば、16%という数字は誤差の範囲に入ると思うのだがどうだろうか?

                   たしかに書かなくなっている人は増えているとは思う。しかし統計以外の年賀状も含めた全体の枚数がほとんど変わらない中で書き手が減っていると仮定すると、減っている分だけどこかで増えていることになり、毎年書いている人たちが枚数を増やしているということになる。PCがここまで普及していなかったときは住所も全部手書きで書かざるを得なかった。しかし今では住所さえ登録しておけばあとは簡単に多くの枚数をプリントすることができる。多少枚数が増えても、手で書くのでなければたいした手間にもならない。こうしたPCでばんばんプリントする人たちが書かなくなった人の枚数をカバーしていることは大いにありうる。現に年賀状を書いている人たちは毎年出す枚数が増えているという。お年玉付年賀葉書以外の統計をみないと正確な結論は出ないと思うが、“年賀状離れは一つの統計からだけからみた報道にすぎない”というのが私の仮説だ。  

                   メールでの年賀状でも一つ気付いたことがある。以前に比べ、携帯やPCでのメール年賀状も減っていないだろうか?物質的なはがきの年賀状をやめ、メールに切り替え、年賀状自体の意義を再考したとき、非物質的なメールでの年賀状は、物質的なはがきの年賀状よりも簡単にやめることができる。印刷しただけの年賀状は味気ないのと同じで、コピペしたような慣習としてのメールもほとんど印象に残らない。それならいっそのことやめてしまえとなるのではないだろうか。それに加え、mixiなどのSNSなどでは簡単に近況を知ることができ、新年の挨拶もBlogにシフトした人たちも多い。これもまた新たな挨拶の形式なのだろう。

                   現代人は挨拶回りを行っていた平安時代の人間関係の何十倍、何百倍も人間関係が広がっているだろう。そのぶん一人一人への対応密度が薄くなるのはある意味必然だ。時間の感覚も昔とは比べものにならないくらいスピードアップしている。こうした状況で人間関係が広がり、時間感覚が短くなっているとなれば、年賀状もビエンナーレ(2年に一度)やトリエンナーレ(3年に一度)にするというのも手かもしれない。日本郵政株式会社が売上を減らすようなことをするとは思えないが、感謝する回数を減らすのもなんなので、あっという間にすぎていく1年の終わりに数日、年賀状を書く時間を取れるのは幸せなことだと思う。95歳になる祖父は90近くで目が不自由になるまで毎年500枚近い年賀状を書いていたらしい。PCを使えるわけでもない全部手書きの祖父の達筆年賀状は今思えばほんとうに素晴らしい。

                   今年も皆さまにとってより素晴らしき世の中になるように 祈りつつ、今後とも末永くよろしくお願いいたします(^^)


                   PS 年賀状を書いている方は是非ご一報下さい。来年度はこちらから送らせて頂きます(^^)


                                   (2007.01.05 加筆修整)


                  CULTURE | permalink | comments(6) | - | -

                  企業のビジョン −「eneloop」の投じた石の波紋はどう広がるか?

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                     しばらく前から気になっている家電メーカーがある。松下でもソニーでもない。三洋電機だ。どちらかというと経営面での問題がクローズアップされているところもあるが、その商品開発のスタンスはとても素晴らしいものがある。

                    2005年7月新体制発足にあたり掲げたビジョンは“Think GAIA”

                     どのメーカーも同じようなビジョンを掲げているが、どれもとってつけたような文句でしかない中、三洋電機の商品開発、対外活動などに対する姿勢は一番明快でわかりやく積極的だ。

                    1997年から開発をはじめ、2001年の発売と同時に大きな話題をさらった
                    ・洗剤のいらない洗濯機

                    2005年に発売された「Think GAIA」商品 第一弾
                    ・乾電池にかわる21世紀の新電池「eneloop」

                    2006年には
                    ・世界初! 空気(オゾン)で洗う(除菌・消臭)「エアウォッシュ」機能搭載ドラム式洗濯乾燥機
                    ・水の力で、空気を洗う!電解水技術で除菌 ウイルスを99%抑制する「virus washer(ウイルスウォッシャー)機能」搭載商品


                     「洗剤のいらない洗濯機」は洗剤業界との間で論争になり、ECOブームにも乗って大きな話題をさらった。他社の追随もあったが、先頭を切って発売したその積極的な姿勢は素晴らしい。そして洗剤を使わないと綺麗にならないと思っている消費者に一石を投じた点でも意味のある商品であった。

                     そして昨年発売された、乾電池にかわる21世紀の新電池「eneloop」は「この一本の電池から、きっと未来は変わっていく」というキャッチコピー通り、時代と捉えた素晴らしい商品だ。

                     その大きな特徴としては
                    1. 1年置いておいてもそのまま使える(今までのニッケル水素充電池は使わないと自己放電してしまった)

                    ■三洋電機HPより

                    2. 今までの充電池の2倍近い1000回の利用が可能

                    3. 低温でも強い

                     私もデジカメに充電池を使っているが、自己放電してしまって大事なときに使えないのが大きな悩みだったが、この問題を「eneloop」は解消してくれ、これで乾電池を買い置きしておく必要がなくなった。この一つの改良がもつ意味はとても大きい。これにより、使い捨ての乾電池との比較で劣る点は価格だけになったと言ってもいい。

                     デザインにも力を入れ2006年度グッドデザイン賞金賞受賞。「eneloop」というキャッチーな名前を付け、プロモーションもさることながら、今までの充電池のマイナス点をほぼクリアし、自社のビジョンにピッタリの商品を生み出した。リサイクル先進国、ドイツやシンガポールでも好評を博し、発売以来10ヵ月で累計約1000万本以上を世界に出荷しているという。

                     素晴らしい商品であることには変わりないのだが、手放しに賛辞を送れない面ある。私は電気もないような場所に旅をすることがあるので、乾電池も使えるデジカメを愛用しているが、最近のデジタル家電をはじめとする機器類は独自の充電池を採用し、本体が小さくなるにしたがって乾電池を使うものは少なくなってきている。そして、乾電池を使うような小さな時計やおもちゃに1000回も使うことができる充電池を使うか?というと、そこまで積極的な消費者は限られる。乾電池はイニシャルコストは低いが、ランニングでコストがかさむ。逆に「eneloop」等の充電池ははイニシャルにある程度かけなくてはいけない。まずは低価格化を実現しなければ、裾野は広がっていかないだろう。そしてここ数年で次世代の燃料電池も実用化の目処がつくだろう。現状での商品の性能やネーミングは素晴らしいし、プロモーションも素晴らしかったが、斜陽産業の革命児となっては意味がないので今後このインパクトを維持していくためには新たな展開のためのさらなる一手が必要だろう。

                     しかし、国内だけでも年間約23億本といわれる乾電池市場から、年間約5.7万トンの使用済み乾電池が発生しているという。これが全部「eneloop」になったらどれだけのゴミとエネルギーがセーブされるだろう。さらに太陽発電を使ってこの「eneloop」を充電する機器と、充電式カイロも発売された。まだまだ価格は2万円近くと高いが、全ての「eneloop」がこの充電器を使って充電されれれば、乾電池はほぼサスティナブルなエネルギーに取って代わる。災害時などにも太陽電池なら対応できる点も見逃せない。カイロも従来のものは一度使い始めると途中でやめることはできなく、エネルギーが無駄になっていたが、このカイロは電池式なので途中で止めることができ、無駄がない。半分ギャグのような商品だが、大まじめに取り組む姿勢はとても好感が持てる。充電池自体が今までなかったわけではないし、考え方自体も特別新しいものでもない。しかし「Think GAIA」のビジョンを掲げた企業イメージに沿い、「eneloop」の持つポテンシャルを時代にマッチさせ、自己満足的な環境配慮に終始することなく充電池を広めるべくリ・プロモートした成果は大きい。

                     同じくもの作りをする立場として、社会に一石を投じるこうした企業の積極的な姿勢には敬意を表し、自ら使い広めていくことによって応援していきたい。

                     まずは小さな一歩かもしれないが、きっと未来は変わっていくと確信している。

                                      (2006.12.23 加筆修整)

                    BUSINESS | permalink | comments(1) | - | -

                    500円札をもう一度 〜習慣としてのチップから気持ちのチップへ

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                       学生の頃、ファミレスに毛が生えた程度のレストランでバイトしていたときに何度かチップをもらったことがある。正確に言えばもらわなかったので、お客さんがくれようとしたことがあると言っておこう。その店では私以外にチップをもらったという話しは聞いたことがなかった。お客さんが楽しんで食事をしてくれるならと、バイトの裁量でできることはなんでもしていた。そしてお客さんとの会話が好きだった。手元が滑ってお客さんにワインをひっかけた事件はとてもサービスとは言えない思い出だが(笑)その頃からサービスを楽しんでいたのだと思う。

                       あれから10年。引き続き建築設計というサービス業を続けている私だが、最近はサービスを受ける側としてもサービスの素晴らしい店を探すことに喜びを覚えている。と言っても高級レストランに行くわけではない。サービス料を請求する店のサービスがいいのは当たり前だ。そうした店ではなく、1000円以内で食べられるラーメン屋や定食屋のスタッフの素晴らしいサービス精神にふれたとき、目の前がパッと開けた感動を味わうことになる。

                       ここでいうサービスは、物質的なサービスでも行為としてのサービスだけでもなく、マニュアル化できないようなスタッフの気配りや心意気、さらにはオーナーの思想や雇われているスタッフの人間性も含めたものだと思っている。

                       サービスに対する意識の高いスタッフがいる店に入ったときは、なにも会話をしないときはほとんどない。オススメを聞いてメニューを選び、料理についての話を聞きその知識に感嘆したり、味やサービスについての感想を話す。話が弾めば普段は聞けない話を聞くこともできるし、多めにサービスしてくれることもある(^^)気に入った店で聞きたいことがないことはまずない。逆に対応が気に入らなければ注文する前に席を立つこともある。

                       小さい頃からスタッフと気さくに話す父の姿を見ていた。資質もあるのだろうが、こうなったのも幼心に父親の影響が大きいと思っている。そして今では家族で食事に行くとみんなでスタッフを取り囲んで談笑するもんだから騒がしくて仕方がない(笑)

                       美味しいんだけどサービスが・・・的な店には残念ながらまたいきたいとは思わない。サービスは料理に加える最後の重要なスパイスなのだからそのスパイスが素晴らしかった時には、感謝の気持ちを素直に伝えるようにしている。海外でも気持ちを表すために現地の言葉で「美味しかった」「ありがとう」「綺麗だね」だけは覚えるようにしている。

                       しかし言葉だけでは気持ちを伝えきれないこともある。伝える余裕がないこともある。そうしたときにはチップを渡したいと思うのだ。でも1000円の食事に1000円札のチップというのは渡しにくいし、受け取りにくいと思う。コインというのもスマートではない。そこで、是非500円札に再登場してもらいたいと思っている。500円札ならもっと気軽に渡すことができるし、気軽に受け取ることができるはずだ。


                      ■1994年に廃止された旧500円札 国立印刷局HP
                      より

                       チップも金額の数%というように習慣になってしまうと、渡す方も、もらう方も当たり前になってしまってありがたみなど全くない。しかし素直な感謝の気持ちとして渡すことができれば、受け取る方も気持ちよく受け取れ、サービスと気持ちが客とスタッフの間で循環する。サービスする側も相手が無反応なら、そのうちにサービスを義務と思うようになってしまう。挨拶一つとってもそうなのだが、こうした習慣の一方通行的な悪循環は現代社会が抱える大きな課題だ。そしてこれらの問題を解決していくために感謝のチップを推奨することは大きな意味があると思っている。

                       制度の有無ではなく、“自己表現の場としてのチップ”がもっと広まっていけば、サービスの場ももっと楽しくなるはずだ。サービスをする側が楽しみ、サービスを受ける側がそれに答える。こうした目に見える気持ちの循環を促すために500円札の発行は一つの手段として面白いと思うのですが、安部首相、次の政策としていかがでしょうか?

                       10年前にもらえなかったチップも今なら喜んでもらうだろう。お金に困っているからではなく、渡したいと思ってくれた気持ちに応えるために喜んで頂戴したいと思う。

                       「スマートにチップを渡せるちょいエロオヤジ」これは今後の課題とすることにしよう(笑)

                                          (2006.12.22 加筆修整)


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                       せっかくなので1000円以内で食べることができるサービス精神溢れる店をいくつか紹介しよう。

                      ■ 四谷 エリーゼ(洋食) 
                       小さい店なのだが気の使い方が全てのスタッフで高いレベルにあり、サービス、雰囲気、メニュー、味、値段の細部にわたって現れている気持ちのいい店。私ならこうする!!と思ったことを見事に再現してくれたときは感動した。私が紹介したサービスのプロも絶賛したプロ意識の高い店。もっと近ければ毎日通いたい。

                      ■ 新宿 ルモンド(ステーキ)
                       フラッと引き寄せられて入った狭小店舗。こうした店を探す嗅覚は持っているのかもしれない(^^)たんなる小さな店だと思ったら大間違い。接客、焼き加減、値段、盛りつけ、無駄のない張りつめた空気。1000円で食べられるステーキとは思えない丁寧な仕事ぶり。あたたかみがある店とはまた違ったサービス。きちっとしている店は味もいい。

                      ■ 幡ヶ谷 たけ虎(ラーメン)
                       ここのおばちゃんのあたたかい雰囲気にはぐぐっと引き込まれて涙が出そうになった。奇をてらわない雰囲気が接客や味にも出ている。


                      こうしたサービス精神溢れる店をご存じの方は是非教えて下さいね!!


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