こころとからだの建築家BLOG

住まいの統合医療で50兆円にせまる医療介護費を半減させる!!
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21世紀はどんな時代だろうか?2〜『生物としての人間の本質』を求めて

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     前回の更新から2ヶ月弱。すぐ書くつもりでいた第二部がなかなか書けずにいた。第一部を書いた時は第二部を「生活文化の再構築」とすべく内容を書きためていたのだが、いざ第二部の構成を練り始めるとこのテーマの中では話が納まり切らなくなっていった。

     「生活文化の再構築」で書こうとしていた内容は、日常生活の中で本来は必要がなかったり、単に習慣的に使っているものが多くあるという指摘だった。たとえば一例だけ挙げると【食器用洗剤】がある。私も習慣的に使っていたのだが、今は油をあまり使わなくなったのもあり、食器用洗剤は全く使わなくなった。多少の油でも熱いお湯と亀の子たわしで十分に落ちる。そもそも全ての汚れを新品のように落としきる必要があるのか?という疑問もあるのだが、ここにはエコロジーやエネルギー資源の節約といった発想はない。そこにあるのは「そもそも生活においてそれが本当に必要なのか?」というしごく根本的な問いである。これは一つの例えではあるが習慣に支配されて本質を見失っているものは生活の中にたくさんある。そしてこうした状況を再考する事が『ニュートラル』に戻るための一つの考え方ではあると今も思っている。しかし突き詰めて考えていくと、さらにもう一歩踏み出すことが必要だと思うようになった。

     そこでこの第二弾ではさらに『ニュートラル』をさらに掘り下げて話を進めていきたい。
    『われわれは余りにも知りすぎている。
                 そして余りにも感じなさすぎる。』
                     バートランド・ラッセル
     この言葉はほとんど全ての感覚を視覚に依存してしまっている現代人には示唆的だ。野生の動物は生きていくために食べ物のある場所を探し、獲物を求めて山野を巡る。こうした環境で必要になってくるのは食べ物を見つけ出す感覚と知恵、それに身体能力であり感覚が鋭くなければ生き残ることはできない。片や外敵や自然の脅威をコントロールしながら《安心・安全な居場所》を目指して人間が作り上げてきた《現代都市》は、もはや何も感じることがなくても生きていくことができる位にまで発展してきている。むしろこの社会で生き残っていくためには「鈍感な程いい」というねじ曲げられた状況すら呈している。果たしてこれが我々の目指すべき姿なのだろうか?そしてこれが本当に“進化”といえるのだろうか?

     先日、あるお寺の住職に貴重な話を聞くことができた。それは世界三大荒行(日蓮宗の大荒行・インドのヨガ・天台宗の廻峰行)のひとつ、日蓮宗の大荒行に住職が行かれた時の話である。この荒行は11月1日から翌2月10日までの真冬の100日間に渡って行われる過酷な修行である。通常、荒行についての話をするのは御法度らしいのだが、このままでは文化が継承されなくなってしまうのを危惧した住職はもっとオープンにするべきだと考えて話す機会を設けてくれた。
    日蓮宗の大荒行
    起床は午前2時半。1日7回寒水に身を清める水行(3時、6時、9時、12時、15時、18時、23時)を行い、食事は1日2回(朝5時夕5時)梅干し一個と白粥をすすり、あとはひたすら読経と写経に明け暮れる。真冬の寒さの中、睡眠時間もほとんどなく、食事も満足に取らず、まさに身体的に極限状態まで持って行くため過去には衰弱死することもあったという。 (参考HP
     こうした荒行の中で住職は「自分の身体感覚がどんどん研ぎ澄まされていく」のを感じたという。例えば食べ物について。満足に食事を取っている状態ではほとんど感じることのできない食べ物の温度感覚が、半飢餓状態で身体感覚が研ぎ澄まされることによって蘇ってくるという。芋を食べれば体温が上がり、キュウリを食べれば体温が下がるのがわかるようになるという。これは季節のものを食べることが理に適っていると身をもって感じていることになる。さらに光の入らないお堂内での修行で、戸を開けた時の光に対する感覚や方角に対する感覚も研ぎ澄まされるという。色にたいしてもほぼモノトーンの景色しかない修行中から都会の色の洪水に戻ると、溢れる色に酔ってしまうという。色の洪水に慣れて鈍感になってしまっている我々には感じることができないが、極限状態で身体感覚が敏感になっていると色の持つ微細なエネルギーを敏感にキャッチしてしまうのだろう。こうした極限状態の感覚は動物の持つ感覚や、狩猟採集時代に人間が持っていた感覚と近いと思っている。しかしこうした《研ぎ澄まされた身体感覚》も、荒行を終えて日常生活に戻るとだんだんと元の感覚に戻ってしまうという。我々は近代化の流れの中で、安心安全な都市生活を手に入れることができた。しかしそのかわりに荒行で住職が身をもって感じたような《研ぎ澄まされた身体感覚》を完全に失ってしまっている。荒行という極端な例ではあるが、特殊な環境下において《研ぎ澄まされた身体感覚》を体現することが僧侶の格を上げるように、我々も失ってしまった身体感覚をもう一度取り戻すことが必要になってくるのではないだろうか。私はこの《研ぎ澄まされた身体感覚》こそが『ニュートラル』時代の一つの核になると感じている。

     生物としての人間の“進化”は抑圧の下でしか生まれない。なにもかも満たされて満足する状況ではもはや肉体的な“進化”は望むべくもない。むしろ現在の道を維持するとすれば、精神的、頭脳的には進化をすることができても、肉体的にはどんどん退化していくことになる。しかし完全に肉体的な退化を肯定してしまうということは、エネルギーと科学技術に依存した感覚を鈍化させる現在の道をそのまま進むと言うことになる。それではこの議論も全く意味がない。『ニュートラル』とはなにか?と問われれば我々の『肉体と精神の内側に耳を傾け、生物としての人間の本質』を見極めることだと思う。そのためには内なるアンテナを研ぎ澄まし、自らの変化や感覚を読み取らなくてはならない。脳科学や計測機器の発達と共に科学的に感覚を理解できるものも出てきてはいるが、まだまだ我々の感知能力の方が桁違いに優れている。そして一般論ではあるが、理屈で考える男性よりも女性の方がこうした感覚を大事にしている。ヨガやアロマ、ダンスや音楽、ヒーリング、マッサージ、マクロビオティックなど、特に女性に支持されているものの多くは感覚的な要素が強い。これからの時代に必要なのは理屈では説明のできない《感覚的なものをそのまま受け入れられる感性》だと思っている。

     「もう男はだめだ。
        20世紀は男性が頑張りすぎた時代だから、
           21世紀は女性に頑張ってもらいましょう」

     これは私が尊敬するデザイン・実業界の大先輩2人(男性)の言葉である。単なる世代交代を意味しているわけではない。第一線で活躍されてきた大先輩が自らの世代を自己否定できる勇気に敬服するとともに、人生の大先輩が感じていることに共感し、次第に私の中の小さな芽生えが確信に変わっていった。いろいろ調べてみると、こうした流れはすでに1970年代から確実に始まっている。いや、もっと昔から確実にあるのだが、時代の流れの中でメインストリームに隠れていただけなのだ。より感覚的なものを大事にすべき時代がもう足下にまで来ている。もしかしたら《産業革命》や《情報革命》よりも大きな時代の流れが来るかもしれない。自らの感覚を研ぎ澄まし、身の回りにあるものや生活全体、さらには生き方や社会全体を再構築すること。これこそが22世紀に向けての我々の責務ではないかと思っている。

                     (2008.11.05加筆・修整)
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    この記事に対するコメント

    感情の起伏が激しい子(本当はそうでもない)は、
    何とか病、と呼ばれ、
    感情をあまり表現しないことが良し、とされる。
    会社の中で「〜〜と感じます。」と言ったら、
    『論理性に欠ける』と認知される。
    本当におかしな世の中。

    心に自然に浮かんだ感覚を、
    そのまま受け止めて味わうことの気持ち良さ。
    それを素直に表現する自由な感覚。
    もっといろんな人に知ってもらいたいですね^^。

    あべま | 2008/11/04 7:13 PM
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