こころとからだの建築家BLOG

住まいの統合医療で50兆円にせまる医療介護費を半減させる!!
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相手を思う “もてなしの心” 〜ホスピタリティとコミュニケーションの相関

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     お店での店員さんとの会話はとても楽しい。興味があるものはとりあえず話を聞いてみる。基本的な商品知識やコンセプト、オススメはもちろん、知識豊富な店員さんとみるや背景や裏事情、もちろん仕事柄内装についても聞いてみる。本音を言えば街でとってもおしゃれな人、いい鞄を持ってる人とか、かっこいい服を着ている人を見ると話しかけたくなるのだが、残念ながらそうした欲望はいつも抑えなくてはいけない雰囲気がある。特に日本においては・・

     そんな日本、特に東京では飲食を始めいろいろなお店で店員さんに話しかけると、一緒にいる友達から「よく話しかけるよね」と言われる。私からすると自然な行為であり、逆に知りたいいろいろな情報を持っている店員さんと「なんで話さないの??興味ないの?」といつも思ってしまう。モノに興味がある。食べ物に興味がある、そして人に一番興味がある。だからもっとその人の話を聞きたい。こだわりのある話を聞きたい。同じ場に居合わせた偶然を喜び、一緒に楽しみたい。至極自然な気持ちではないだろうか?しかし、こうした自然な気持ちを抑えなくてはいけない社会がある。その背景にはホスピタリティとコミュニケーションのねじれた関係が見て取れる。

     たしかに売り手と買い手の間には絶対に外すことのできない一線が存在する。しかし“お客様は神様”と暗黙の上下関係を作ってしまうと、そこに大きな問題をはらむことになる。単純化してしまうと、神は寛容な存在だが、客は神にはなれない自分勝手で我がままな存在なのだ。その違いが実は売り手と買い手の関係をねじれたものとし、ホスピタリティとコミュニケーションのねじれた関係を作りだしている。客商売の理想としての意味は理解できるが、客がそれに便乗すると本末転倒になってしまう。我がままな神はもはや神ではありえない。

     例えばお笑いにおける“ぼけとつっこみ”はコミュニケーションのわかりやすい形式のひとつである。一昔前の話かもしれないが、関西人は関東では“ぼけ”がスルーされるといって嫌っていた。考えてみれば当たり前の話なのだが、コミュニケーションが成立しない状況は、お店スタッフの「いらっしゃいませ」の挨拶に何も応えない客と同じなのだ。関西人からすれば“ぼけ”も一種のホスピタリティなのだから。

     近年、コミュニケーション能力の低下があちこちで叫ばれている。実は人間の身体も通常は臓器と臓器、細胞と細胞がお互いコミュニケーションを取り合うことにより生命を維持しているという。そう考えると身体は60兆個(毎日15兆個が再生)の細胞が住む精密で繊細な巨大コミュニティといえよう。しかし例外がそこにはある。ガン細胞がそれだ。ガン細胞はまさに他者とコミュニケートできない細胞なのだ。やっかいな人、コミュニティに入り込めない人を「がん」というが、これは他者とコミュニケートいできないという意味で的確な表現である。そしてそのガンによる死亡率が数十年前に比べ飛躍的に伸びてきており、同様に人のコミュニケーション能力の低下も著しいという同じような状況が見て取れる。この2つを直接的に結びつける事は現段階では無理があると思うかもしれないが、コミュニケーションという視点で見た“生物としての身体”と“コミュニティ”のアナロジカルな関係はとても象徴的な事例である。

     話はすこしそれるが、以前にスキンシップについて少し書いた。さらに最近はスキンシップによるヒーリング効果にも注目しており、バーバル(言語的)なコミュニケーションだけではなく、スキンシップなどノンバーバル(非言語的)なコミュニケーションの役割を再認識して体系化できないか注目している。西洋医学の限界をこえるための代替医療はもちろんだが、人間の身体を中心として、コミュニティ全体やお互いの関係性の中における人間という存在を医学的に俯瞰するような思考は今後さらに進んでいくだろう。人間の身体は数千年も変わっていないが、まだまだ人間の生物学的な進化が社会の変化に適応しきれていないといえる。これまでの人間の進化という意味ではなく、この部分を補うため、一度ゼロに戻すような方法論が必要だといえよう。

     ホスピタリティについては店のプライス相応のホスピタリティなのだという人もいるだろう。たしかに入社後教育されたホスピタリティはそれだけコストもかかっているのでプライス相応かもしれない。しかし、一杯500円のラーメン屋でも、700円の定食屋でもホスピタリティとこだわりの溢れる店は存在する。残念ながらコンビニやファーストフード店では客と店員との接点が少ないだけにホスピタリティもコミュニケーションも感じにくい。だからといってホスピタリティがなくてもいいというものでは決してない。コンビニだから、ファーストフード店だからこの程度で仕方ないという消費者の見方はホスピタリティのあり方を低下させるばかりだ。コンビニでもファミレスでも素晴らしいホスピタリティとサービスを気持ちよく受けることができるようになればどんなに素敵な国になるだろうか。実際にそうした場所でスタッフのホスピタリティに感動することもあるのだから。

     サービスにおけるマナーとホスピタリティは同じではない。マナーは教科書で学ぶ事ができるが、ホスピタリティはそうもいかない。そして基本的にホスピタリティはお金の問題でもスキルの問題でもない。相手の立場に立ってどうしたら喜んでもらえるか考える想像力の問題だ。手前味噌になるが、私も学生時代はチェーンのベーカリーレストランでバイトをしていた。バイトの身ではあるが食事の素敵な時間をお客さまと共有するために、自分でできることはいろいろと工夫してサービスし、お客さまといろいろな話をした。そしてファミレスに毛の生えた程度の店にも関わらず、お客さまにとても喜んで頂き、チップを頂いたことも何度かある。こうしたお客さんは年配の方が多い。楽しみ上手は「店を使うのがうまい」とよくいうが、まさにこうしたサービスを引き出す“店の使い方上手”=コミュニケーション上手だと言えよう。そうした場を作り出そうとする想像力こそホスピタリティの原点である。道具がなくても予算がなくても想像力が在ればできるはずなのだ。

    「どんどん我が侭を言ってください。
           どんなオーダーにも応えますよ(^^)」
                 サルバトーレ・クオモ

     ナポリピザで名を上げたサルバトーレ・クオモの言葉だ。こうした言葉こそ、料理人いやサービスを提供する人の鏡だと思う。もちろんそこには徹底した料理人としてのこだわりがある。 

     最近、夏木マリプロデュースの「つるとんたん」がお気に入りだ。なんと680円のきつねうどんでも、うどんを3玉まで増やすことができる。最初から入れてもらってもいいし、お代わりをしてもいい。そして丼ものに付くミニうどんも3玉まで増やせるのだ。そして器が軽く顔が隠れる程大きいというサプライズ。もちろん味も最高。店舗内も細部にわたって気が使われている。流行を追っているわけでも、客に媚びているわけでもない。しかしそこには単価の低いお客様に対しても「満足して帰ってもらう」というサービス業の原点が見て取れる。これで流行らない訳がない。こうした店の場合はホスピタリティに対して“また来る”もしくは“人にも薦める”という形で金銭的な見返りも循環させている。

     ホスピタリティでよく例に出されるのが日本旅館における女将のもてなしだ。旅館のもてなしは多くの外資系ホテルやサービス従事者も参考にしており、日本が誇るべき無形文化財といえるだろう。例えばアマン・リゾーツ創始者エイドリアン・ゼッカもアマン・リゾーツ創設以前に京都に滞在していた時期があり、その時の日本旅館におけるホスピタリティに影響を受けたというのも有名な話だ。そのアマンが初めて日本にやってくる。いや日本に戻ってくると言ってもいいのかもしれない。2008年京都にオープン予定だそうだ。リゾートホテルの新しい形式を作りだし、一躍世界中のセレブリティ御用達のホテルとなったアマンの原点が日本文化にある。これは日本人として誇るべきことではないか。

     しかし、いくら店のホスピタリティが優れていても、客のコミュニケーション能力が低くては片手落ちだ。サービスに対する対価を払うだけではなく、サービスを評価し、褒めることによってお互いが気持ちいい関係を築くことができる。文句(クレーム)だけなら子供でも言える。それは友人関係でもお店における対応でも同じはずなのだ。褒められて嬉しくない人はいない。現に「最近褒められていない」などというフレーズをテレビでも友人からも聞く。褒められて嬉しくない人なんていないのに人を褒められないという矛盾は単なるコミュニケーション能力、もしくは想像力の欠如だと思っている。こうしたねじれた関係を、ホスピタリティとコミュニケーション両方を関連づけて再構築していくことによって、人と人がもっと気持ちよく関わることのできるコミュニティが生み出せるはずだ。コミュニケーションにホスピタリティは必須であり、ホスピタリティにもコミュニケーションなしには成立しない。そう、人々のホスピタリティ(hospitality)が人を癒すホスピタル(hospital 病院)となるために。そして21世紀をもっとステキな社会にするために。自戒の念も込めて。

                         (2007.12.13加筆修整)
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    この記事に対するコメント

    今更コメごめんね(^^;)
    ありがとうの気持ちってホント嬉しいよね。

    ハンドルを握ると人格がより一層変わるアタシに
    旦那が忠告してくれた事があったの。

    信号も無い交差点で、アタシは直進。
    右折しようと待ってた車の後に長蛇の列を知らなかったけど
    停止したのね。
    右折した車は"ありがとう"の気持ち程度の小さいクラクション鳴らして曲がって行ったの。
    したら、「今、後ろの車の人見てた?」って旦那。

    見てないアタシは「なんで?」
    「手挙げてたんだよ。」だって。

    通りをスムーズにしてくれてありがとうって意味だって。
    そんな人達が多くなるといいなって思ったわ。
    なんか嬉しくなった想い出。


    タクシーの乗車客からの些細なプレゼントだったね♪
    ヒロヨ | 2007/12/16 2:48 AM
    さっきタクシーが曲がろうとしていたので、自転車を止めて過ぎ去るのを待っていたら、タクシーの運転手ではなく、後ろに座っていた外国人のお客さんが頭を下げて待っていた私に挨拶していきました。このちょっとした気遣い。本来は当たり前といいたい対応に感動してしまうことが、いかにゆがんでいるのかを改めて実感しました。共感してくれた皆様、コメントありがとうございました!!
    管理人 | 2007/12/15 7:48 PM
    携帯電話とばかり見つめ合っていては、人が見えなくなりますね。
    満員電車とか、何かに追われる毎日とか、そういう中にいては、素敵なコミュニケーションって難しいのかもしれません。
    人々の気持ちが先か、環境の改善が先か、わかりませんが。
    きねのん | 2007/12/14 12:40 PM
    とっても共感できました。
    受け取る側の姿勢って大切!!
    良い客になりたいものです。
    最近は、
    箱根の三河屋という老舗旅館で おかみさんに
    「しかられる」というサービス?をうけて少し感動!
    こういうコミュニケーションって、わざとらしい接客より
    よっぽど胸をうつんだなと・・
    ↑もちろん とても素敵なもてなしサービスがあったってのが前提にありますが。
    時代の波かもしれませんが、最近
    言葉すらデジタルになってきた気がします。
    ハートは忘れたくないものですね。
    ようこ | 2007/12/13 10:31 PM
    ほんと、日本で普通に生活していて、知っているひと以外とコミュニケートすることって少ないですよね。
    ニュージーランドでは、バスに乗るときはHello, Hi there, How are you?降りるときはThank you! Thanks mate!などと声かけしてます。その勢いでバスドライバーさんと仲良くなったりも。おかげで一度あきらめかけた仕事の話をしたら、今電話すれば間に合うよ!!と励まされ、その仕事を手に入れた、という経験もあります。
    スーパーだって、レストランだって、ひととの話は楽しいもの。しかも、その道の専門家の話ですから、面白いですよね。
    ノンバーバルなコミュニケーションといえば、こちらではハグが普通ですしね。安心感ありますね、繋がってる感。
    日本でももっとコミュニケーションが普通にとれればもっと世の中楽しくなるのに。と思います。
    mikiwo | 2007/12/13 7:46 PM
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