こころとからだの建築家BLOG

住まいの統合医療で50兆円にせまる医療介護費を半減させる!!
<< December 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 今の教育に足りないものは熱意とエンターテイメント性だ 〜人となりを感じられる講演会 | main | 目次001 2004.11.11-2005.02.09 >>

「いないフリ」をする社会 〜 形式化してしまった『挨拶』

0
     ある日のコンビニでの会話

    店員「いらっしゃいませ」     客「・・・」
      「198円になります」     「・・・」
      「200円お預かりします」   「・・・」
      「2円のおつりです」      「・・・」
      「ありがとうございました」   「・・・」

     これが友人との会話だったらどうだろう?
    関係は長続きするだろうか?

     かつて、日本の建築空間においては「見なかった・聞かなかったフリ」が関係をスムーズにするテクニックのひとつであった。石積みの空間に比べ、障子や襖の空間ではどうしてもプライバシーを保ちきれない。そうした空間の中では「見なかった・聞かなかったフリ」をすることが相手を尊重し、プライバシーがない中にも仮想プライバシーとでもいうようなものができ、人間関係が形成されていた。もともと個室という考え方のない日本の建築空間ならではのコミュニケーション文化がそこにはあった。

     そして現代においては、日本の空間に障子や襖の空間はほとんどなくなってしまい、プライバシー重視の文化にあわせて空間も変化し「見なかった・聞かなかったフリ」をする必要はほとんどなくなった。しかし、そこには新たな問題が生まれてしまった。人口過密状態の都心などにおいて、例えば満員電車では他人と接触せざるを得ない状況が生まれる。そうした状況ではすぐ横に人が「いないフリ」をしなくてはいけない。瞬時に自分の殻にこもる必要が生じることになる。マンションなどでも隣近所の人も分からず、近くにいながら交差することのない平行線状態が生まれ、それはまさに近くにいながら「いないフリ」をする状況と等しい。地元というコミュニティがあるうちはそうした「フリ」をしたくてもできない。しかしそうしたしがらみのない人々がやってきて、平行線の生活をする人が増えるにしたがって、だんだんと「いないフリ」=「見なかった・聞かなかったフリ」をする文化が悪い意味で復活してしまったのだ。

     いつのころからか忘れたが、店などで「いらっしゃいませ!!」という気持ちのよい挨拶に対してなにも反応を示さないというのには違和感を感じ、それ以降、コンビニでの買い物もこんな風に変わった。

    店員「いらっしゃいませ」    客『こんにちは』(^^)
                     『これお願いします』
      「198円になります」    『200円でお願いします』
      「200円お預かりします」    
      「2円のおつりです」     『ありがとうございます』
      「ありがとうございました」   スマイル&会釈(^^)

     今さら挨拶の重要性を説くのもなんだが、もともとコミュニティにおける挨拶とは「敵意がないことを相手に伝える」ための手段であった。ここで多田道太郎の「しぐさの日本文化」より挨拶についての下りを少し引用しよう。
    「現代社会では、慣習の体系を極小化してもやっていけるほど法体系が厳しく人びとを規制する――そして規制することで人を保護するようになって来たということなのである。〜たとえば挨拶といった慣習を守らなくても、もしそんなことで相手がおそいかかってくれば「ポリース」と叫べばよいのである。〜昔は逆に、法が守ってくれないから、みなにこやかに挨拶したのである。挨拶の中身は何でもいいのである。」

     そして店舗などにおいて、挨拶を返さなくても敵意の表れと見なされないのは、商売において「お客様は神様」という権力を客が無意識に行使しているからにほかならない。すくなくとも、店員は客に対して挨拶をしながら、なにも返ってこないことにはストレスを感じるはずだ。そしてそれを当たり前だと思うようになると、その挨拶も形式化された無意味な行為となってしまう。

     人の思考というのは面白いもので、挨拶だけではなく「いないフリ」=「見なかった・聞かなかったフリ」というのはあらゆることと連鎖している。例えば挨拶を形式化させないですることにより、モラルやマナーにおいても、「見なかった・聞かなかったフリ」をするのではなく積極的にコミットするようになるし、「他人だからいいや」というようにはならなくなり、コミュニケーションを形式化せずに、相手に対して、社会に対してコミットしようとする姿勢がそこに生まれるようになる。『気持ちよく相手とコミットしあえる社会』というのは「いないフリ」をする社会よりも確実に気持ちのよい社会のはずだ。

     以前自分で書いたブログを読んでいたいら、こんな事を書いていた。
     先日、東南アジア各国を旅していて思ったのは、
    知らない人同士が気さくに話していること。
    ジャカルタにいったときにインドネシア人の友達と待ち合わせをしていたのだが、待ち合わせの場所に行ったら彼女の隣で仲良く話している子がいる。「友達?」と聞いたが、たまたま横にいた子と話していただけらしい。

     地方ではそうでもないのだが、今の東京では(特に都会では)そうしたことは少ない。逆に話しかけると身構えられる。隣に住んでいても話したこともない状況があちこちにある。

     しかし、ネット上では会ったこともない人がこのブログを読んでくれ、そしてそれに対してコメントを書いてくれたりする。ここではリアルな状況とはまったく逆転してしまっているのだ。匿名性を利用した誹謗中傷はもってのほかだが、こうしたネット上のコミュニケーションのやりとりこそあるべき姿なのではないだろうか?そうした意味では、SNSはネット上のコミュニケーションをリアルなものにつなげていく可能性を秘めていると思っている。

     こうしてまずは形式化されているものの意味を考え直してみると、そこには大きな穴が空いている。その穴の先に見るもの。それは思った以上に大きな暗い部分なのかもしれない。しかしその穴を埋めてあげることによって、そこには違う世界が見えるはずだ。それがどんな世界なのか是非見てみたいと思っている。

                       (2006.07.23 一部追加)




    CULTURE | permalink | comments(7) | trackbacks(0) | -

    この記事に対するコメント

    地球人としてのコミュニティー意識か。なるほどね。
    私は仕事上、個々の人をいかに理解していくかを求められるので、隣人からのコミュニティー→地球人としてのコミュニティーの流れのほうがすっと入ってきます。

    「過去最悪の列車脱線事故」なんていう言葉を時々聞きます。過去最悪って…他の事故だって当事者にとっては最悪なんですが。何を持って最悪というのか。おそらく被害にあった人、つまりは死者の数なのかなと思います。死者を人数で表すとき、たぶん人を思いやることはできません。事故や災害のたびに感情移入しろって言うことではもちろんありませんし、報道や記録としてはそのような表現が必要なのだろうと思います。ただ毎回の報道をさらっと聞き流してほしくはないなと思います。人数での表現や、テレビに映るものだけをみても、人々の声は聞こえてきません。
    「星の王子様」のなかで、きつね君は「本当に大事なものは目に見えないんだよ」と言ってましたね。相手をわかろうと思う気持ちや想像力がなければ、見えないんですよね。ノンフィクション作家の柳田邦男氏の講演を聞きました。3人称である他者のことを2.5人称の目で見てほしい、ということをおっしゃっていました。他人は他人なんだけれども、相手を理解しようとするとき2.5人称という感覚はいいなあと思いました。満員電車の乗っているとき周りは3人称だけど、そこに赤ちゃんを抱いてる女性がいたら2.5人称。

    えー、まとまりはありませんが、わたくしもまた書きました。
    きねのん | 2006/07/30 9:47 AM

    >本当に地球人としてのコミュニティー意識の形成なんて必要なんだろうか?

    この問いにはYesと答えたい。日本人だけの挨拶レベルの話しなら必要ないかもしれないけど、これからは異文化理解というのがもっと必要だと思うから。

    もちろん地域コミュニティの形成はベースとして必要だし、「他者を自己として受け入れられるかの想像力」そうした意識が薄れつつあるというのは問題だけど、それとは別に島国日本における“異文化理解”は大陸諸国や移民の多い国に比べて意識が低いと言わざるを得ない。(そうした国々が多くの問題を抱えているのもまた事実なのだが・・)人モノ金がさらにグローバルに動いていくこれからの社会では、日本でも労働力としての移民をさらに受け入れるようなことになれば、そうした異文化理解が、地域コミュニティ以上に大きな問題になるのではないかと危惧してる。たとえ地域コミュニティでの意識形成がうまく再興できたとしても、異文化における国際理解は次元が違う話で、特に宗教の話しが入ってきたときに、宗教を持たない日本人が多くを占めている状況では相互理解が難しいのではないかと思う。異文化理解というのも、結局は自国愛に通じる部分も多いので、そうした意味では「地球人としてのコミュニティー意識の形成」がさらに地域コミュニティを安定させる要素となるんじゃないかと思うよ。


    >地域コミュニティー意識が生むのは、いかに他者を自己として受け入れられるかの想像力だとおもう。

    いい表現だね(^^)まさにその通り。


    >仮想現実空間のネットの世界が、現実世界の土着的なコミュニティー意識の復権に役立つんだからさ。

    なるほど、そういう結果もおもしろいね。地域コミュニティーの意識が今より高まるか、もしくはまったく地域に依存しない形(世界のホテルを飛び回るような)ノマドになるか。一般的には前者かもしれないね。後者は世界企業で働くビジネスマンの姿か。デルなど、田舎に貢献するゴジラ企業はまさにそうした姿の体現なのかもしれないね。



    毎回のサワイのコメントにはドキッとしながらも楽しませてもらってるよ(^^)
    おかげでだいぶ自分の中でも考えが進化してる。サンキュ!!
    じゅんぺい | 2006/07/26 1:27 AM
    言葉に甘えついでに、もう少し書くよ。

    本当に地球人としてのコミュニティー意識の形成なんて必要なんだろうか?
    いや、必要なんだろうけど、目的にはならないんじゃないかな?

    地域としてのコミュニティー意識で十分なんじゃないかと思う。
    つまり、いかに隣人を思いやれるか(たとえそれが知らない人でも)でしょ。隣人を思いやれない人には世界を思いやれないだろうし、隣人を思いやる心のある人は世界を自分のことの様に思いやれる人なんじゃないのかな?
    これは甘いのかな。

    じゅんぺいが指摘してる様に、現状はより複雑になっていて、地域コミュニティーでは単純にとらえきれないと思うけど、まずはそれからでしょ。

    で、もしかしたら、そんな現状を打破できるのはweb2.0の世界なのかもな、って最近思うよ。個が仕事をする、情報を得る、発信するのに場所も資金も必要としなくなる(かもしれない)その世界では、自分が住む場所に求める意味みたいなものは、より純粋になっていって、もしかしたら地域コミュニティーの意識ってのは今より高まるんじゃないかってね。

    もしそうなら面白いよね。
    仮想現実空間のネットの世界が、現実世界の土着的なコミュニティー意識の復権に役立つんだからさ。

    で、話しが最初に戻って、地域コミュニティー意識が生むのは、いかに他者を自己として受け入れられるかの想像力だとおもう。だから、じゅんぺいの言う「地球人としてのコミュニティー意識」ってのも、地域コミュニティー意識の副産物として形成されるんじゃないかと。。


    やっぱり、甘いと思う?
    サワイ | 2006/07/26 12:36 AM
    皆さんコメントありがとう。

    同じ文章でもコメントの切り口がみんな違って、どこに興味があるのか分かって興味深いです。
    嬉しいのは、まとまりがないといいながらも何かしらを残してくれていること。議論ってこういうもんだと思います。コメントしてもらうことによってまた議論が深まります。こうやってなにがしかのものがみんなの中にストックされていったら最高だと思います。

    >コミュニティを形成させるのに、必要不可欠なのは、その地域での共同で行われる活動だとおもう。 サワイ

    地域的なコミュニティ形成をするときはまさに“知人”となることで、それが形成されていきます。もちろんこうした共同活動を通じたコミュニティ形成は重要。かつての日本では一人暮らしをするなんてことはほとんどなく、あっても下宿という形態で、そこのコミュニティから離れることが難しく、田舎のしがらみといわれている関係を嫌がって都会に出てきた人も多いと思う。現在は一人暮らしも当たり前だし、子供のいない夫婦なども地域のコミュニティから離れようと思えば容易に距離を取ることができてしまう状況です。そうしたコミュニティももちろんベースとして必要だけど、地域コミュニティではとらえきれない現状は、さらに大きな日本人、もしくは地球人としてのコミュニティ意識の形成が必要なのだと思います。


    >ネットでは気軽にやりとりできるのはコミュニケーションとはいえ、
    自分の考えを最後まで言える(書ける)からだと思います。 りー

    これには納得しながらも、ネットで言えることならリアルでも言えると思います。ネット上のコミュニティがオフ会などにスムーズに移行できるのは、すでにそこにある程度のコミュニティ意識があるから。オフ会などで楽しんでいる人はコミュニケーション能力がある人なのでしょうが、ネットとリアルの世界を隔てることなく行き来している人たちなのでしょう。こうしたコミュニケーション力をもっとリアルな世界でも出していけば、地域のコミュニティだけではなく、異文化理解というところにまで持って行けるのではないかと期待しています。


    >同じ空間にいてもまったく知らない人同士だったら、
    話しちゃいけないと思ってるのかも。
    知らない人でも、
    同じ空間にいるだけで共通のことはたくさんあって、
    共感したい思いもあると思うんだけど。 きねのん

    共通テーマを見つけることが、コミュニティ形成のベースになっていると思う。たとえばMixiのコミュニティはまさにそれがネット上に形成されたもの。コミュニティが人とかぶるとそれだけで親近感がわくのもそのおかげ。でもそれ以上に同じ地球に住む人間であるという「人間愛」こそが一番のコミュニティのベースであり、共通のテーマじゃないかな?例えは悪いけど、巨大隕石が地球にぶつかって地球崩壊まであと3ヶ月なんて時に諍いを起こそうと思うか?環境問題とか、地球に対する問題意識はそうした共通のテーマになりうるかもしれません。

    >個人活動でも、少しずつなら、穴は埋まっていくかしら?

    今は個人活動もネットの利用によって、大きなメディアとしての役割を果たせるようになっているから、ネットがない時代よりも個人の活動を有効に広めることができると思う。でも何か発信しなければそのツールはあっても意味がないので、いろんな場所でいろんな人を巻き込むパワーが必要なのはいつの時代も同じだと思う。


    じゅんぺい | 2006/07/25 11:19 AM
    コミュニティを形成させるのに、必要不可欠なのは、その地域での共同で行われる活動だとおもう。かなり抽象的な表現なんだけど、うまい言葉が見当たらないんだ、ごめん。
    たとえば、子供ってのはそういう活動を生むひとつの鍵だよね。学校行事とかで親同士、先生や近所の人が顔見知りになって行く感じがね。
    商店街の祭りとか、じゅんぺいの言う「挨拶」とかも、一つの鍵なんだけど、今ひとつ盛り上がらない。なんでだろうってするなら、そのお店の人自身がその地域住人じゃなかったりするんだよね。もちろんそんなに多くはないとおもうけど、コンビニの店員だってバイトじゃん?2、3回利用すれば、誰だって客の顔とか、何となく覚えちゃうんだよね。挨拶とかしなくても。それを挨拶なんかしちゃった日には、まちがいなくその店員はじゅんぺいの事を覚えてると思う。でも、もしその店員がその地域の住人じゃなかったら、店外での接点がなくなっちゃうよね。そう考えると、「挨拶」はもちろん大切だけど、コミュニティーの形成の意味は少し薄いと思う。

    一番てっとり早いのは、自分でなにかイベントを起こす、参加する事だろうね。なかなかそんな暇は無いと思うし、難しいとは思うけど、繰り返しやるうちに、地域での関心は高まると思うし、定着すれば、それは一つコミュニティを作ったことにもなると思う。


    ごめん、うまく言えんわ、やっぱ。
    そんな風に思ったよ。
    サワイ | 2006/07/24 9:18 AM
    たまごが先かにわとりが先か、みたいだけど
    ご近所付き合いが希薄になったり
    他人との距離を遠ざけるから
    さまざまな悲しい事件が起こるのか、
    事件が起こるから自分の身を守るために
    ご近所付き合いやいろいろな人との関係に
    フィルターをかけるのか。と思います。

    人なつっこい子が危ない目にあった話を聞くと、
    ほとんど危ない目にあったことのない私の
    警戒心が強すぎる点は、短所でもあるけど、
    生きてくうえで役に立っていたのかもと思います。

    ネットでは気軽にやりとりできるのは
    コミュニケーションとはいえ、
    自分の考えを最後まで言える(書ける)からだと思います。
    言っている途中で、相手の顔色・反応をみたら
    言えなくなってしまうこともあるでしょう。

    他人を変えることはできないけど、
    自分を変えることはできるし、
    それによってまわりも変わるかもしれない。
    みたいなフレーズが心理学の本なんかでよくみます。

    何だかまとまりないなぁ・・・。
    とりあえず、以上。


    りー | 2006/07/23 4:30 PM
    「他人」と関わったほうが楽しいこともたくさんあるのに、
    関わらないようにして生きていると、関わり方を忘れちゃう。
    同じ空間にいてもまったく知らない人同士だったら、
    話しちゃいけないと思ってるのかも。
    知らない人でも、
    同じ空間にいるだけで共通のことはたくさんあって、
    共感したい思いもあると思うんだけど。

    子どもが巻き込まれる犯罪とか、
    じゅんぺいくんの言う穴を埋めたら、
    ちょっとは良くなるんじゃないかと思うよねぇ。
    防災士としては、
    ずっと知らんぷりしてた人たちが、
    災害時にちゃんと手を取り合っていけるか心配。
    近所づきあいは難しくても、
    人と言葉を交わすことぐらい日常的にできていてほしいな。

    耐震偽装のマンションの方で、事件が発覚してから、
    住人に連帯感が生まれたって言ってた方がいた。
    人とつながってることって、
    人間はもともと求めてるような気がする。

    穴を埋めるのは、どうやって取り組んでいくの?
    じゅんぺいくんはそれをやってきたほうでしょ?
    ちょっとずつ、じゅんぺいくんの周りから埋めていく?
    それとも、社会を巻き込むようなプランにする?
    気づいているけど個人活動になってる人とか、
    一応自分の本にはそのことを書いてる人とか、
    世の中にいっぱいいるような気がするんだよね。
    個人活動でも、少しずつなら、
    穴は埋まっていくかしら?
    きねのん | 2006/07/22 11:04 PM
    コメントする









    この記事のトラックバックURL
    http://jpo.arch-i-tect.com/trackback/549364
    この記事に対するトラックバック