こころとからだの建築家BLOG

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人生のよりどころ 〜信仰をなくした我々はどこに向かうべきか?

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     mixiにとても素晴らしい子がいるのだが、私よりも若い彼女のブログからはいつもいろいろな刺激をもらっている。今年最初になるこのブログも彼女のブログを読んで書きたくなった。こんなあたたかくも心に残ることを書く子がいると思うと世の中捨てたもんじゃないなといつも思っている。

    ―――――――――――――

     大学同期の友人とこんなことを話していたことがある。

     「俺らはバブルなんて全く知らないし、就職も大変だけどそれは決してマイナスではなく、波に勢いで乗せられることなく冷静に自分の道を考えられるからプラスだよ」と。

     金の卵に始まり、高度成長期やバブルを経験してきた人たちが目指してきたのは、「豊かさ」という共通の目標。それが達成された今、次なる目標をゆっくり考えられると思ったら平和ぼけしたフリーターやニートが登場する一方、IT起業してばりばり稼ぐ人々も出てきたけど、信仰すらをなくしてしまった我々には「人が生きることについてのよりどころ」が信仰を持つ人々よりも明らかに少ない。

     昨年、3ヶ月の東南アジアへの旅で宗教のある国の面白さと難しさに触れてきた。バリのヒンドゥー、インドネシア、マレーシアのイスラム、タイ、カンボジア、ベトナムの仏教。そしてこれらが混在しているシンガポール。これらの国を一度に見られたことで、宗教の持つ力を勉強してみたくなった。

     太古の昔、信仰はひとつであった。いや、「もともと多様であった」と言った方がいいのかもしれない。人の力が及ばない圧倒的力への恐れ、憧れ、祈り。このひとつの源流から現代の5大宗教 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教や数々の宗教が生まれていった。現在、世界総人口の35%がキリスト教、19%がイスラム教、14%がヒンドゥー教、6%が仏教だという。

     日本における宗教の信者数は、文化庁「宗教年鑑」によると、神道系が約1億600万人、仏教系が約9600万人、キリスト教系が約200万人、その他約1100万人、合計2億1500万人となり、日本の総人口の2倍弱の信者数になる。神道系と仏教系だけで2億人をこえる。これは、国家神道や学校教育の年中行事の影響で、多くの日本人が七五三や初詣、あるいは季節の祭りを神社で行い、江戸時代の寺請け制度の影響で、葬式や盆などを仏教式で行うなど、複数の宗教にまたがって儀礼に参加しているためである。

     日本のキリスト教徒は総人口の1%を超えることはなく、教会なども欧米や25%のキリスト教徒を持つ韓国などに比べるとそれほど強い影響力を持たない。こうした国であってもクリスマス、バレンタインデー、ハロウィンなどのイベントを太古の昔から祝っているイベントのように振る舞っているのは、なんとなく神道や仏教と思っているだけで実際は宗教に対しての意識がほとんどないからだ。こうした特定の宗教を持たないという宗教観は、アニミズム的宗教観を根底に持つと言われる日本人らしい宗教観だとも言える。
     雨乞いをし、農作物の豊作を祈っていた時代は信仰が生きていくこととイコールであり、死活問題であった。そうした中で農耕とともに信仰もより具体化していったのではないかと思う。現在、宗教がもとでおこった対立が世界各地であるが、これも宗教は人が生きていく上で必要不可欠なものであり、君主の支配や戦争の歴史の中に複雑に織り込まれてきた織物であるからにほかならない。各宗教の教祖は宗教的寛容さを持ち、争いとは対極の立場を取っていたはずである。しかし、生活の一部となった宗教はたえず争いの元になっている。信仰は人にとってのよりどころであり、根が深いものだけにそこにできた溝も深い。

     完全分業が進んだ現代都市においては農耕をすることもなければ、狩りをすることもない。こうした中ではもはや信仰は蚊帳の外に追い出されてしまっている。しかし植物や動物ではなく人間として生まれてきた我々は、やはり何かのよりどころがないと弱い存在なのではないだろうか。資本主義経済を新たな信仰というひともいるが、これをPCのシステムに例えればゲームのルールにすぎず、OSに当たるものにはなり得ない。マック教かウィンドウズ教かリナックス教か選べと言われれば、私はマシンという名がぴったりのウィンドウズ教よりも人間味溢れるマック教だが、OSをわれわれ素人に作れと言われても作ることはできない。それゆえ誰かが開発したOSから選ぶことになるのだが、世界の多くの人がウィンドウズを選ぶように我々日本人もウィンドウズを選ぶ。同じようにアメリカ人がキリスト教を選び、日本人は何となく神道系か仏教系という選択をする。しかし、OSもそうなのだが宗教も歴史や伝統があるものとはいえ自分にぴったり合った宗教を選択することは難しいのではないか。現在すでにある宗教を勉強したいと思ったのも、あまりに宗教に対する知識がなく、もしかしたら共感できる宗教があるかもしれないと思ったからだ。「なければ自分で作ればいい」とまでは言わないが、生きていく上でのよりどころとして少しでも得るものがあればと思っている。最近始めたヨガもその一環だ。これについてはもっと勉強してから書きたいと思う。

     そうした中でこれから我々がもっと意識しなくてはいけないのは信仰や宗教と言うよりも自分の哲学と言った方が近いかもしれない。宗教も突き詰めれば教祖や宗派の哲学が派生したものにほかならない。大きな意味での宗教・哲学はもはや誰かが作って皆で信仰していくものではなくなっている気がする。ローカルな共同体と一体化した信仰は残っても、情報化された都市社会の中では多様な個別の宗教=個々の哲学が意味をなしてくると思っている。農耕も直接関係なく、自然から離れた都市のなかで会社以外の共同体もなく暮らす我々に共通の宗教を信仰できるとは思わない。そうした環境の中では個人個人の哲学こそがその人の信仰とも言うべき存在になっていくのではないかと思う。「ソフィーの世界」が10年ほど前にベストセラーになって以来、哲学関係の本が増えてきているのもそうした裏付けになっている。簡単に個人の哲学などと言ってしまったが、これはみんなが悟りを開くようなものだからそうやさしいものではない。だが、人生80年を哲学すると思えば悟りとまではいかなくても、人生のよりどころを自分で悩んで見つけるくらいのことはできるのではないだろうか?そのためには小さい頃から哲学すると言うことを教育しなくてはならない。哲学というと小難しいが、マニュアルなしでも生きていける思考を身につけさせる教育だ。私自身そんなに大きく言えるほどの哲学をすでに持っているわけではないが、少なくとも50年後には自信を持って伝えられるようにはしているつもりだ。

     私の曾々祖父はギリシャ正教の神父だったらしいし、祖父母はともに戒名を持つ仏教徒ではあるが、私自身はいまのところ自分を積極的無神論者と考えている。人の力が及ばない圧倒的な力を感じつつも、そこに具体的な信仰を見つけ出せてはいない。私は昨年自分の事務所を構え、これから自分のオリジナリティを積極的に世界にアピールしていきたいと願い出発したばかりだ。30になったこれからが勝負だと思っている。しかし、自己満足に終わらないか?果たして自分のやろうとしていることにどんな意味があるのだろうか?そしてこの資本主義社会の矛盾をいつも心に抱えている。環境配慮と言いながらた販売促進を掲げ、ゆとりゆとりと言いながらゆまぬ経済成長を願い、懸命に走り続けた企業戦士ほどぼろぼろになってリタイアし、老後の安心すら得られず、自分がやろうとしていることはこれでいいのかと立ち止まって考えたりする。職業に貴賤がないように、生き方に良い・悪いはあっても、正しい生き方というのはないと思っている。母親が以前に言っていた言葉が心に残っている。「結局、今どんな状況にあろうとも自分のやりたいことを楽しんでる人はハッピーだよ」悩まずに進めるのも才能だと思う。しかし、悩んで立ち止まって周りを見渡し、後ろを振り返り、みんなで楽しく歩み続けるのが私の選ぶ道なのだと思っている。この結果は50年後のお楽しみ!!もしかしたら日本を脱出しヨガを極めにインドで修行しているかもしれない。それもありだけどね(^^)

    今年一年が皆さんにとって一番素晴らしい年になりますように!!という意気込みで毎年年を取っていきたい(^^)




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    この記事に対するコメント

    >kieさん
     
     コメントありがとうございます。
     今のITやベンチャー長者達は、kieさんが思っていらっしゃるように「なんらかの原因でそれが出来ない人の力に少しでもなりたいと思うこの頃です。」という気持ちがあまり見えず、勝ち組ならぬ『勝ち逃げ』になってしまう気がしてなりません。以前にもブログで少し書いたのですが、そこには宗教的ホスピタリティが少なからず影響してると思っています。
     人のためにと思う人もやはり自分の道を見つけなくては人のために尽くせないと思っているので、私はまず自分のことから始め、影響力のある立場になることができたなら、そこから世界のためにできることをしていきたい。30−50年計画になるかもしれませんが、その方が今微々たる力でするよりも効果が大きい。今できることはしていますが、いつもそう思っています。
    じゅんぺい | 2006/01/16 12:43 AM
    はじめまして。考えさせられなかなか進みませんでした(笑)
    自分の成功や好きな生き方はほんとに憧れるし素晴らしいと思います。
    でもなんらかの原因でそれが出来ない人の力に少しでもなりたいと思うこの頃です。
    kie | 2006/01/16 12:01 AM
    >きねのん
     時間を計っていたわけじゃないから何とも言えないけど、1.5時間くらいはかかっていると思う。引用も含めて約3500字。原稿用紙9枚弱。一枚あたり約10分計算。構成を組み立てて、いちおう校正もしてるからこのくらいの時間はかかちゃうよね。

     >>女性は経過を、男性は結果を重視するという傾向でした。
     「経過・結果」という見方になるのは、自分の立つ立場が男女で違うからだと思う。それは女性に地図が読めない人が多いのと同じで、女性はあるもの(自分)の立場を中心に物事を捉え、全体の関係の中での位置を見にくい。
     一方、男性は社会的立場もあるだろうけど、自分の立場を他者との関係の中で捉える傾向がある。その結果が上記の意見の相違になっていると思う。


    > りーさん
     信仰の押しつけについては同感。フランスでスカーフ禁止令が出たのは逆の意味での押しつけだと思う。
     ただ、自分に余裕がないと他者を批判してしか自分を正当化できないんだよね。知恵と経験で少しでも自分に余裕ができるようにしたいと思う。
    じゅんぺい | 2006/01/09 4:05 AM
    宗教は、各自が自由に信仰しているにはいいと思う。
    問題だと思うのは、相手に押し付けてしまうこと。
    よかれと思ってしているのかもしれないけど、
    それによって、争いが生じているのはどうかと。
    そんなことを思っています。

    いろんな考え方を受け入れられたら。
    私もなかなかできてないけどね。
    りー | 2006/01/08 9:45 PM
    まず最初に聞きたいのは、このくらいの書き込みにはどのくらい時間がかかるの?

     私は信仰している宗教は特にありませんが、気に入ってるのは仏教の真言宗です。じゅんぺい君が言っているように、自分にぴったりの宗教の選択なんて難しいですよね。一つ一つの宗教の吟味なんてしていられない。私の真言宗との出会いは、数年前ふと思い立って四国八十八箇所巡礼をしましたが、それをきっかけに般若心経を勉強して、空海を意識して「あ、真言宗ってうちの祖母さんが信仰してるやつじゃん」という、運命的?なつながりからでした。

     個々の哲学、とありましたが同感です。無宗教であっても、努力などでは補いきれない祈りも願いもあるのは人間として当然ですよね。私は「自分の心の中に神様はいるんだな」といつか感じたときから、神様の種類は何でもいいやと思っています。臨機応変にお願いできるしね、便利だよ。

     私が提案するよりどころの種は二つあります。ひとつ、素敵な先輩に会う。仕事でであった80歳代の男性が言いました。「大学のときに『吾輩は猫である』を読んだんだけどね、まあこんなもんかなと思ったよ。最近また読んだんだよ。なんとすばらしい小説だったのか、やっとわかったんだ。80年生きてきた人生の経験というのはそういうことなんだと思うよ」これを聞いて、あぁ私も長生きして新しい目を持ちたい!って思いました。
     もうひとつ、人の死を見ること。身近な人の死の悲しみ、つらさ、影響を直接感じることができたら、死ぬという選択はなく今がつらくてもとにかく一生懸命生きるしかないんだとわかるような気がします。
     ふたつまとめて、自分の周りで自分を支えてくれている人(知ってる人も知らない人も)が、生きるよりどころだと思います、・・・今は。80歳になったら、もっと違うことが言えるかもしれませんね。楽しみです。


     女性と男性の考え方の違いという点で、先日印象的な出来事がありました。ある男性アスリートが駅伝を走っている途中で脱水になり歩くこともままならなくなりました。しかしなんとかたすきをつなごうと懸命に前進し、たすきをつなぎます。この後、関係者の中で女性の意見は「彼はたすきをつないだしみんなに勇気や感動を与えたからすばらしかった」というのが多く、男性では「もっと早い順位になったかもしれないのに彼を走らせたのは失敗だった」というものでした。女性は経過を、男性は結果を重視するという傾向でした。結果が出なければ意味がない?本人は無念でしょう。でも結果も経過もどちらも大切だなと思う。
    きねのん | 2006/01/08 1:58 PM
    みなさんへ
    新年早々長文を読んでくれてありがとう。

    daiji君 対抗してコメントも長いっす(笑)

    俺も今まで軽視されていた感覚的なことは、これからもっと世の中に出てくると思ってる。たとえばマーケティングにおいてもまずターゲットになるのが、一番お金を落としてくれるF1と呼ばれる若い女性世代で、彼女達はやっぱり男性よりも感覚的に動いてると思うし、女性のほうが男性よりも一般的に感覚的な部分が多いのは、妊娠・出産を通して直接的に自然的な部分とつながっているからだともいわれるけど、そうした女性たちがこれからもっと感覚的に世の中を動かしていく時期なのだと思う。男もより中性的な人が増えいて、性の持つ社会的イメージ自体が今までとは変わってきている中で、母系社会の復権とまではいわなくても、これまでとは違った形の社会ができていくのではないかと思っている。
    じゅんぺい | 2006/01/08 3:31 AM
    明けましておめでとう。
    しかし…なげぇ〜!
    でもすんなり読めてしまった。
    オレは仏教はやっぱり身近に感じてる…まぁこの感覚はほとんどの日本人の感覚とあんまり変わらないけどね。
    ただ、仏教大学には行きたい!
    これは前々から言ってるから知ってっか!?
    インドに行ったのもそういう意識があったからだし。でも、もう今は「宗教」っていう定義とか枠組みとか「宗教」自体への興味はないかな。オレはかなり感覚人間だから。単にお香の匂いがいいとか…(笑)いやそれだけじゃもちろんないけどね。

    メシ喰う前とかにさ、祖母ちゃんがよく「ありがたい、ありがたいって思うのよッ」って言ってた。最近それをすんごく思い出す。その顔、声、仕草、言葉を思い出すと、先祖からのツナガリをすんごく思うんだよね。なんで生きてんだ?とか思ってもツナガリを考えるとやっぱ「ありがたい」って思える。理由なんていらない。生きるべきなんだって。

    思想、哲学、宗教…なんでもいいけど、空虚感を埋めるのって結局頭じゃなくて心。感覚でいいと思ってる。素直に心を満たせることって言ったら、最近とみに小難しいことが面倒な今のオレには、先祖代々を想像することかな。空虚感に襲われてるときでも「だからなんなんだ」ってなことは思わない。っつうか思えない。まぁオレの場合だけどね。

    …ちなみに今日近くの寺のお焚き所に今まで世話になったお守りとか御札とかを置いてきた…ホントは成就したり一年経ったらっていう風にするんだろうけど…、なんかいいもんだね。
    んで甘酒を飲んだ!

    純平よ〜ッ。宗教もいいが、酒が一番だぞ!

    酒が拠り所…最悪な結末が待ってそうだ(笑)

    daiji | 2006/01/08 2:13 AM
    向かうべきは、常に自分自身だろうね。難しいけど。。

    目先の事に追われてても、ある程度時間が経過して行くと、それはそれなりにカタチになってきちゃうから危険だよね。何も考えず、何も疑わないでいたら、中身が空だった、、、なんて事になりかねないから。

    中身が無かったら悲惨だよねー。目的を失う。動機を失う。。
    動けないだろうね、自分なら。
    本当は、行動の結果としてのカタチに「空」なんてあり得ないと思うんだけど、思い込みが先行すると空に見えてきちゃうのかもね。

    そうならないように、気をつけないとね。

    今年もよろしく!
    サワイ | 2006/01/07 11:18 PM
    あけましておめでとうございます!
    心の拠り所の確立を僕も目指そうと思っています。
    今年もよろしくお願いします☆

    新年早々、良い文読ませてくれてありがとございます!
    kimi | 2006/01/07 10:12 PM
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